パブロ・デ・ラ・ジャーベ(Pablo de la Llave、1773年2月11日 - 1833年7月)はメキシコの神父、博物学者である。
当時スペイン領であったメキシコ、ベラクルス州のコルドバに生まれた。神学校(Colegio Nacional de San Juan Laterano)の教授、メキシコ大学の神学の教授となった。ヨーロッパに渡り、パリで学んだ後[1]、マドリード自然史博物館の副館長を務めた[2]。ホセ・モシーニョの助手として働き、1811年、1812年にメキシコへの博物学探検に参加した[3]。1820年と1821年にスペイン議会でベラクルス州の代表を務め、メキシコが独立した後、メキシコに戻り、1924年に共和制となったメキシコの初代大統領、グアダルーペ・ビクトリアの閣僚となり、ベラクルス州の知事となった[1]。
博物学の分野ではマルチネス(Juan José Martínez de Lexarza)とともにミチョアカン州のランの分類学的研究を行い、1824年に50以上の種を記述した著書を発表した[4]。1831年にメキシコ国立自然史博物館の館長に指名された。1832年、1833年に鳥類に関する論文を発表しハチドリ亜科の鳥類、Amazilia tzacatl や、キヌバネドリ科の鳥類 Pharomachrus mocinno(ケツァール)などを記載した。
イノモトソウ科の植物の属名、Llavea に献名されている[5]。