パンディヤ・ナードゥ地方 Pandya/Pandi Nadu | |
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地理的地方 | |
பாண்டிய நாடு | |
パンディヤ・ナードゥ地方の位置 (タミル・ナードゥ州) | |
国 | インド |
州 | タミル・ナードゥ |
地理的な広がり | |
最大の都市 City |
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政府 | |
• 議会 | タミルナードゥ州政府、インド政府 |
面積 | |
• 合計 | 30,108.13 km2 |
人口 | |
• 合計 | 15,616,770人 |
言語 | |
• 公用語 | タミル、英語 |
• その他 | テルグ、カンナダ、マラヤラム、サウラーシュトラ |
等時帯 | インド標準時 |
パンディヤ・ナードゥ地方(パンディヤ・ナーデゥちほう、タミル語:பாண்டிய நாடு、英: Pandya Nadu、Pandi Nadu)は南インドのタミル・ナードゥ州にある。その広がりは西にVenad/Ay Naduがあり、北東にen:Chola Nadu、北西にen:Kongu Naduが位置する。マドゥライ県、テーニ県、シヴァガンガイ県、ラーマナータプラム県、ヴィルドゥナガル県、ティルネルヴェーリ県、テンカシ県、トゥーットゥックディ県、カンニヤークマリ県およびティンドゥッカル県の一部を含む[1][2]。
この地域とパーンディヤ朝の結びつきは少なくとも紀元前4世紀までさかのぼり1759年にいたる[3]。マドゥライは文化および政治の主要な中心地で[4][5]、かつてのパーンディヤ朝の首都である。往時の主な交易港は河口からさかのぼったコーカイにあり、第二の中心都市として栄えた[6]。
紀元前3世紀にサンガム朝(Sangam age)が滅びると地域はカラバラ朝(Kalabhras)の支配下に置かれ、やがてパーンディヤ朝復興運動を率いるen:Kadungon により第1次パーンディヤ朝が興り(6世紀)、また10世紀に中世チョーラ朝の支配を受けたのちに第2次パーンディヤ朝が再興する。デリー・スルターン朝の南下がマドゥライ・スルターン朝の成立を導き、パーンディヤの版図はヴァイハイ川流域より南へと退いた。その後、ヴィジャヤナガル王国の王子がスルターンたちを押し戻してこの地域を家臣に与えた。16世紀に王国が衰退するとマドゥライ・ナーヤカ朝の独立、カルナータカ太守の台頭を経て18世紀にイギリス領のマドラス管区に併合された[6]。
この地域が文化と経済、政治においてケララとスリランカに密接に関わってきたのは、インド洋を介して西アジアと東アジアの貿易が背景にあった。現代のパンディヤ・ナードゥ地方の中心地はカンニヤークマリで、インド亜大陸の先端に位置する。
パンディヤ・ナードゥ地方は15世紀にヴィジャヤナガル王国の支配下に置かれ、16世紀の帝国崩壊から17世紀にイギリスに征服されるまで、この地域を支配したのはマドゥライのナヤク族である。18世紀になるとマドラス管区に統合される。1947年のインド独立後、マドラス管区はマドラス州に改称され、後にタミル・ナードゥ州に改組される。