初代ケアンズ伯爵ヒュー・ケアンズ Hugh Cairns, 1st Earl Cairns | |
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1860年代のヒュー・ケアンズ | |
生年月日 | 1819年12月27日 |
没年月日 | 1885年4月2日 (満65歳没) |
死没地 | イギリス イングランド、ボーンマス |
出身校 |
ダブリン大学トリニティ・カレッジ ミドル・テンプル |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | 保守党 |
称号 | 初代ケアンズ伯爵、枢密顧問官(PC)、勅選弁護士(QC) |
配偶者 | メアリー・ハリエッタ |
内閣 |
第一次ディズレーリ内閣 第二次ディズレーリ内閣 |
在任期間 |
1868年2月29日 - 1868年12月1日 1874年2月20日 - 1880年4月28日[1] |
庶民院議員 | |
選挙区 | ベルファスト選挙区[2] |
在任期間 | 1852年7月7日 - 1866年[2] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1867年 - 1885年[2] |
初代ケアンズ伯爵ヒュー・マッカルモント・ケアンズ(英: Hugh McCalmont Cairns, 1st Earl Cairns, PC, QC、1819年12月27日 - 1885年4月2日)は、イギリスの政治家、法律家、貴族。
保守党の政治家、また法曹として活躍。保守党党首ベンジャミン・ディズレーリの側近として2度のディズレーリ内閣に大法官として入閣した。
1819年に軍人ウィリアム・ケアンズとその後妻ロザーナ(旧姓ジョンストン)の間の三男として誕生[3]。
1838年にダブリン大学トリニティ・カレッジからバチュラー・オブ・アーツ(BA)やバチュラー・オブ・ローの学位を取得して卒業。1844年にミドル・テンプルに入学して弁護士資格を取得[3]。
1852年から1866年にかけてはベルファスト選挙区から選出されて保守党所属の庶民院議員を務めた[3]。
法律家としても活躍を続け、1856年には勅選弁護士となり、1858年から1859年にかけては法務次官、1866年には法務総裁、1866年から1868年にかけては上訴法廷の裁判官(法官貴族)となる[3]。
1867年にケアンズ・オブ・ガーモイル男爵の爵位を与えられた[3]。
政界においてケアンズ卿はベンジャミン・ディズレーリと親しかった[4]。1868年2月から12月にかけて成立した第一次ディズレーリ内閣では、ディズレーリに睨まれて大法官の座を追われた初代チェルムズフォード男爵に代わって大法官(貴族院議長)として入閣している[5][3]。さらに野党期の1869年には保守党貴族院院内総務となったが、一会期で辞職した[6]。1874年から1880年にかけての第二次ディズレーリ内閣でも大法官として入閣した[7]。閣内でも最も首相ディズレーリと親しい閣僚の一人であった[8]。
1856年にメアリー・ハリエット・マクネイルと結婚し、彼女との間に以下の7子を儲けた[3]。
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 ジョン・チチェスター卿 ロバート・ジェームズ・テナント |
ベルファスト選挙区選出庶民院議員 同一選挙区当選者 リチャード・デヴィソン(1860年まで) サミュエル・ギブソン・ゲッティ(1860年から) 1852年 – 1866年 |
次代 サミュエル・ギブソン・ゲッティ チャールズ・ランヨン |
司法職 | ||
先代 サー・ヘンリー・シンガー・キーティング |
法務次官 1858年 – 1859年 |
次代 サー・ヘンリー・シンガー・キーティング |
先代 サー・ラウンデル・パルマー |
法務総裁 1866年 |
次代 サー・ジョン・ロルト |
公職 | ||
先代 初代チェルムズフォード男爵 |
大法官 1868年 |
次代 初代ハザレイ男爵 |
先代 初代セルボーン男爵 |
大法官 1874年 – 1880年 |
次代 初代セルボーン男爵 |
党職 | ||
先代 第3代マームズベリー伯爵 |
保守党貴族院院内総務 1869年 – 1870年 |
次代 第6代リッチモンド公爵 |
学職 | ||
先代 第3代ロス伯爵 |
ダブリン大学学長 1868年 - 1885年 |
次代 第4代ロス伯爵 |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | 初代ケアンズ・オブ・ガーモイル男爵 1867年 – 1885年 |
次代 アーサー・ケアンズ |
初代ケアンズ伯爵 1878年 – 1885年 |