ヒルマン(Hillman )は英国の自動車メーカー、ブランド。
1907年から1931年まで活動、のちルーツ・グループ傘下で自動車ブランドとしてその名をつけて生産・販売され、クライスラーUK時点の1976年で終了した。ヒルマン車を製造した工場は、欧州クライスラーを買収したプジョーの英国工場として操業を続けていたが、2006年12月に生産を終え、2007年1月に閉鎖された[1]。ヒルマンのブランド商標権は現在もPSAが所有している。
創業者のウィリアム・ヒルマンは、1907年以前には自転車製造ですでに億万長者であり、自動車製造はその余剰資金の新たな投資先であった。
ウィリアム・ヒルマン(1847年[注釈 1] - 1921年2月4日)は技術者だった。自転車産業界の父と呼ばれるジェームズ・スターレーと、その甥で現代自転車の発明者といわれるジョン・ケンプ・スターレー(ローバーの始祖)と共に1870年、アリエル自転車を創業し自転車製造を始める。1881年、ウォリックシャー州コヴェントリーで自身の自転車製造オート・マシナリー(Auto Machinery )を設立。これが大成功し、20世紀になる前にすでに大金持ちの仲間入りをしていた。当時の自転車は高価だったのである。有り余る富を目の前にして次なる野心が芽生える。それが自動車製造だった。
なお、自転車会社名は以下のように変遷している。
ウィリアム・ヒルマンは、コヴェントリーのストーク・アルダムーア(Stoke Aldermoor )のアビンドン・ハウス[注釈 2](Abingdon House )に移る)。
フランスでド・ディオン・ブートン(1906年-1907年)には英国でハンバー自動車で働いていたフランスブルターニュ出身で28歳だったルイ・コータレン(Louis Coatalen )を設計者兼主任技術者とし、1907年に自動車会社 ヒルマン・コータレン・モーターカー(Hillman-Coatalen Motor Car Co. Ltd. )を創立。工場は自宅の一角だった。
コータレンの最初の車はレース用車両で4気筒エンジンを搭載した24/25cvだった。これでマン島の自動車レースにコータレン自身の運転で参戦、レース途中にクラッシュしゴールできなかったものの車は評判となった。
その後自転車、ミシン、ローラースケートを製造していたフッド通り9-11にあったオート・マシナリー・ワークスに自動車製造も移される。最初の乗用車は9.76リッター6気筒、6.4リッター4気筒を搭載した大型だった。
1908年9月24日[2]、コータレンは王立自動車クラブ(RAC)主催のマン島 "Four-inch" レースに出場。ネイピア・ハットンに乗ったW・ワトソンが優勝し、コータレンが運転したヒルマン・コータレン車は9着とビリから2番目だった。
1908年には1930年まで変わることなく続いたヒルマン・ラジエターがデザインされた。
ルイ・コータレンは自身の持ち株を会社に売り1909年サンビームの主任技術者となる。彼はサンビームでも速度記録に挑んだ。また、サンビームでサンビーム・コータレンエンジンを作り、アストラ・トウレ飛行船にも使われた。この飛行船は海軍AT式2号飛行船として日本でも使用された。コータレンの移籍によりヒルマンはスポーツ・ブランドではなく、大衆ブランドへの道を歩むこととなる。
1910年、社名をヒルマン・モーター・カー・カンパニー・リミテッド(Hillman Motor Car Co. Ltd )とする。
A・J・ドーソンがコータレンの後任の技術者となった。ドーソンはヒルマンのシングル・モデル・ポリシーに従い1913年、9hp 4気筒単一鋳造サイドバルブ1327ccエンジンのこぢんまりとまとまったヒルマン・ナインを設計・製作した。自動車が金持ちの道楽から大衆の移動手段になりつつあった。この車はかなりの数を販売し、ヒルマン社は軌道に乗ってきた。英国国内ではエンフィールド、シンガー、スタンダードが育ってきていたが、ヒルマンの販売は堅調だった。1914年には年450台程を生産していた。
この車は第一次世界大戦後には1600cc11hpと大きくなり1925年まで4000台程が生産された。
1918年、ドーソンが会社を離れる[注釈 3]が、ジョン・ブラック(1895年 - 1965年)が後を継ぐ。コータレン、ドーソンは技術者だったが、ジョン・ブラックは法学部出の営業である。
1496ccに排気量を小さくし1500cc以下のヴォワチュレット・クラスに参戦できるようにしたスポーツモデルが1919年に作られた。そのうちの一台は『英国のミスター・モーターレーシング』と呼ばれたレイモンド・メイズが購入し、1920年に参戦しブレシア・ブガッティに移籍するまで使用した。
1921年ウィリアム・ヒルマンが亡くなる。ウィリアムの後もヒルマン家が会社の経営権を握っていたが、日々の会社の運営はジョン・ブラックとスペンサー・ウィルクスがおこなった。ジョン・ブラックはこの年にデイジー・ヒルマンと結婚しヒルマンの娘婿となっている(ヒルマンを離れた1939年に離婚)。スペンサー・ウィルクスもヒルマンの娘婿となった。
会社の方針を変え再び上級市場に狙いを定め、1925年、14hp(フォーティーン)を出す。14hpは大ヒットとなり、1928年まではこのモデルのみが生産された。4気筒1,954ccの保守的な車でオースチンの12(トゥェルブ)やハンバー14/40などが競合だった。14hpは1930年まで作られ5年間で11,000台程販売された。1928年になると14hpに加え初めてOHVを採用した2.6L直列8気筒エンジンをフォーティーンのシャーシを延長して搭載、58bhpで70mphを出した。このエンジンはルーツ買収後、ハンバー製シャーシに搭載されヴォルティック(Vortic )となる。さらに後には美しいコーチワークのボディを乗せて1929年ヒルマン・ウィザード (Hillman Wizard 、エンジンは2.1/2.8L)となる。この直8は2,795台製造されている。
1927年にはすでに国内の独占販売権をケント州メイドストーンのルーツ兄弟に与えている。
1928年、ヒルマンはハンバーに買収され、ジョン・ブラックはハンバーおよび(ハンバーの子会社となっていた)コマーの役員となる。しかし1929年ジョン・ブラックは会社を去り、スタンダード自動車に新天地を求めた。ウィルクスも1929年9月、ローバーの窮状を助けてくれるよう、社長のColonel Frank Searle に事業部長・工場長(general manager )として招かれる。同時に弟も参加。ウィルクス兄弟の参画でローバーは不況期を乗り切っている。
さらに1931年にはルーツ自動車にハンバーごと買収される。ヒルマンはルーツ・グループ内での売れ筋ブランドとされた。ルーツのブランドはこの時点でハンバーとヒルマンのみで、ハンバーはヒルマンより高級車に位置づけられた。
1931年10月、ルーツはヒルマン・ミンクスをロンドンモーターショーで発表。大衆向けとしてデザインされた。159ポンドで販売され、大戦間で最も売れた車になった。ミンクスは絶えず改良された。戦争前の最終モデルではシャーシとボディが一体構造となるユニタリー・コンストラクションとなり、初期のモノコックボディとなった。ヒルマン・ミンクスは152,000台が生産されている。
エアロ・ミンクス(Aero Minx )というクーペモデルが1933年から1935年に生産された。
1934年、サンビームがルーツ傘下となる。
1939年、サイドバルブを復活させ2.1L(のち2.6L)6気筒エンジンとして1931年のウィザードに搭載、翌年1932年には1185cc4気筒のヒルマン・ミンクスに搭載した。ミンクスはボディスタイルが幾度か変えられ第二次世界大戦終了時まで生産された。ウィザードは1934年20/70に代わり、これは1936年まで続き、サイドバルブ直列6気筒2576cc(のち3181cc)搭載のホークに引き継がれる。ホークはのち、ボディが変更されハンバー・ブランドで販売される。
ミンクスの信頼性が買われ、戦時中は軍部から軍用スタッフカーとして依頼を受け戦争終了時まで生産を続けた。この点で戦後の乗用車生産再開時に資材不足に悩んだ他社に比べ、ルーツは即時再開が可能だった。
1946年、ルーツが本拠地としていたもともとタルボットの本拠地ライトン・オン・ダンズモア(Ryton-on-Dunsmore )に移動。
戦後当初は、ミンクスが戦前と同じ1,185ccエンジンで再生産された。以後改良のたびフェーズナンバーが振られた。1948年のマークIIIでボディスタイルを改める。1954年のマークVIII(フェーズVIII)ではOHVとなった。デラックス版のモデルは『Gay』モデルと呼ばれ、広告では「Gayでいこう、ヒルマンでいこう。」(Go gay, go Hillman )と使われた。同じ1954年にはさらに小型車としてヒルマン・ハスキー(Hillman Husky )が作られた。これはバンタイプのボディで1954年製だったがサイドバルブエンジンが使われた。ハスキーのフロアパンはのちサンビーム・アルパイン(Sunbeam Alpine )でも使われた。ミンクスは1956年に新型へモデルチェンジする。シャーシ改良はオートマチック・トランスミッションが1958年からオプションで追加、標準装備でスパイラル・ベベル・リア・アクスルが1961年に、フロント・ディスク・ブレーキが1964年に追加された。
1957年、ミンクスのプラットフォームにシンガー・エンジンを載せたシンガー・ガゼルが登場。1959年からはヒルマン・エンジンとなる。1959年に1.5L、1962年には1,592cc、1966年には1,725ccを搭載。1961年には、ミンクスのボディを拡大し、1.6Lのエンジンを載せたヒルマン・スーパーミンクスが登場、1967年まで販売された。
ミンクスは、ルーツ自動車と提携した日本のいすゞ自動車がノックダウン生産を行い、日本でいすゞ・ヒルマンミンクスとして販売した。1953年にMk VIのCKD生産から始め、1956年には英国同様新型にモデルチェンジ。のち完全に国産化し、1964年まで生産した。
ニュージーランドでは、ミンクスがハンバー名で1949年から1967年まで販売された。1955年からは、サイドバルブエンジン車がハンバー10、OHVモデルがハンバー80、そしてスーパーミンクスがハンバー90となった。
ルーツ・グループ・ヒルマン部門となっても1913年以来のヒルマン車ワンモデルポリシーが維持されていた。しかしBMCのミニが人気を博しはじめたなか、ルーツ・グループとしてもこれに対抗する小型車が必要とされ1963年にヒルマン・インプが登場。スコットランド・グラスゴー近郊のリンウッドに建設された新工場で製造された。リンウッド工場は景気の停滞する中、英国政府の労働振興政策に基づく推薦により決定されたものだった。ライトン・オン・ダンズモアと平行して1970年まで生産が続けられた。
1963年のインプは2ドアサルーンモデルでコヴェントリー・クライマックスのFWM(Feather Weight Marine )ユニット製全合金875ccリアエンジンを搭載した。バリエーションにはファストバックタイプモデルのカルフォルニアンと、ステーションワゴンモデルのハスキーがある。
エンジンは車両後部、トランスアクスルの後方に45度傾けて置かれた。傾きをつけたためエンジン上部にはトランクスペースが可能となった。フロント・サスペンションはスイング・アクスルでハンドリングは幾分凡庸となった。以前はレース用に開発されたビームアクスルを装備していたものもあったのだが、エンジンとトランスミッションに難があった。1968年ごろには修正されていたが、人々の心に刻まれてしまった。
バンウォール(Vanwall )F1エンジンで評価を高めていたレオ・コミッキ(Leo Komicki )が担当した39bhp4気筒エンジンもあった。レースドライバー兼エンジニアのマイク・パークス(Mike Parkes )がシャーシを担当したものもあった。パークスはのちフェラーリのワークス・ドライバーとなった。
クライスラーとなっていた1976年からは製造品質の悪化がはじまり、モデル終了となるのもそれほど時間はかからなかった。13年間で全生産台数440,032台。ミニの成功を横目にインプは年間生産目標15万台を達成することはなかった。ルーツ・グループは常に国際ラリーに出場していたが、1965年チューリップ・ラリーでは、ラムゼイ・スミスの運転でインプが優勝。1970年、71年、72年の英国サルーンカー・チャンピオンシップで出場したクラスでアラン・フレイザーの運転で優勝している。
スーパー・ミンクスの後継として1966年に新型のヒルマン・ハンター(Hillman Hunter )が登場。1967年に登場した、より小型のエンジンを乗せたモデルにはミンクスの名前が使われた。これらの車は工場ではアローというコードネームで呼ばれていたのだが、公式にアローが車名となることは一度もなかった。
ハンターはこれというところがないギャップを埋めるためだけの車で、1725ccの旧式ヒルマンエンジンに新しい顔を乗せたものだった。フロント・サスペンションはマクファーソン・ストラットに変更されていたがライブ・リアアクスルは継続した。ハンターは1977年からはクライスラーのバッジをつけて1979年まで生産された。1,496ccの小型エンジン仕様はニュー・ミンクスという車名で1967年から1970年まで生産された。
ヒルマン・ハンター/ルーツ・アローは、1967年からイランのイラン・ナショナル(現:イラン・ホドロ(Iran Khodro))で『ペイカン』(Peykan )の車名でCKD(コンプリートノックダウン)生産された。これはイラン革命後の1980年代も徐々に国産化されながら、2005年まで継続生産された。
クライスラー・コーポレーションが1967年にルーツを買収。買収は1964年からはじまっており、最終的なルーツ・グループ株取得が1967年に完了。クライスラーが長期に渡り株取得をおこなっており、ルーツはこの期間、新モデル開発への投資ができなかった。上層部は効果的な対策をもてず、政治家は将来展望をもたず貪欲さで扇動し自動車業界をはじめ英国産業界を危機的状況に陥らせたと評価されている。しかも、クライスラー自身が米国市場で苦境に瀕しており、欧州市場を新天地として求めたが、その進出時すでに疑念の目で見られていた。
クライスラー・ヨーロッパの下、1970年からクライスラーUKとして操業を開始。1970年でリンウッド工場を閉鎖し、英国での工場はライトン・オン・ダンズモアのみとなった。
ヒルマンのブランド名は1976年にクライスラーに置き換えられた。
クライスラー資本での開発による最初のヒルマンモデルは1970年のヒルマン・アヴェンジャーで、そしてこれはヒルマンブランド最後の車ともなった。当初ヒルマン名で販売開始されたが、1976年からはクライスラー名、PSA(プジョー)による買収後の1979年にはタルボット名となり1981年に終了している。
4ドアサルーンで4輪がコイルによる独立懸架。エンジンは当初1,248ccと1,498ccで、のち1,295cc、1,598ccとなった。幾度もマイナーチェンジされ、100mphの2ドア仕様も1973年から1976年に販売されている。一度終了していたサンビームの名前もタイガーで復活。タイガーはラリーやレースで使うためにホモロゲーション用限定生産モデルとし210bhp BRMバッジをつけた4ドア2リッター仕様もあった。
アヴェンジャーはプリムス・クリケット(Plymouth Cricket )という車名でアメリカ市場に、その他の市場にはダッジ名で輸出されたがうまくいかなかった。
1979年にクライスラーは欧州部門をPSA・プジョーシトロエンに売却。買収後、PSAはブランドをクライスラーからタルボット(Talbot、フランス語読みではタルボ)に変更。この時点でハンターの生産が終了し、アヴェンジャーはタルボットの名で1981年末まで販売された。
ヒルマンから受け継がれたライトン工場は操業をつづけ、アヴェンジャーの後継となるホライズンや、様々なプジョー車を生産した[3]。
2000年代、ライトン工場ではプジョー・206を生産していたが[3]、2006年4月、PSAは翌2007年半ば以降にライトン工場を閉鎖すると発表[4]。閉鎖は段階的に行われたが、退職希望者が増えたことなどにより予定が前倒しされ[5]、2006年12月に生産を終了、翌2007年1月に閉鎖された[1]。
ヒルマンのブランド商標権は現在もPSAが所有している。