ビリー・J・クレイマー | |
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(1965年) | |
基本情報 | |
出生名 | ウィリアム・ハワード・アシュトン |
生誕 | |
ジャンル | |
職業 | 歌手 |
担当楽器 | ボーカル |
活動期間 | 1963年 - |
レーベル | |
共同作業者 | ザ・ダコタス |
ウィリアム・ハワード・アシュトン(William Howard Ashton)は、ビリー・J・クレイマー(Billy J. Kramer)の名で知られるイギリスの歌手。バックバンドのザ・ダコタスと共にブリティッシュ・インヴェイジョン期に活躍し、ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーから曲を提供されたことでも話題を呼ぶ。
7人兄弟の末っ子として、マージーサイド州ブートルに生まれる。イギリス国鉄に機関実習生として勤めている傍ら、バンドでリズム・ギターを担当する。そのバンドのリード・シンガーが脱退すると、ギターの腕があまり良くなかったクレイマー(当時はまだ本名)はリード・シンガーに転向する。
ブライアン・エプスタインの目に止まり、契約を結ぶ。最初は、コースターズというバンド(アメリカのドゥーワップ・グループとは別)がバックバンドになっていたが、相性が合わなかったため、当時ピート・マックレインのバックバンドをしていた、マンチェスター出身のザ・ダコタスが就任した。
1963年、ビートルズのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』に収録されていた、「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」のカバーでデビューを飾る。そのシングルは功を奏し、チャートの2位を記録する[2]。続く2枚目の『バッド・トゥ・ミー/アイ・コール・ユア・ネーム』もチャートの1位を記録[2]、ゴールドディスクにも認定される[3]。更に3枚目の「アイル・キープ・ユー・サティスファイド」もチャートの4位を記録し、一躍ヒット歌手の仲間入りを果たす。
連続してビートルズ提供のシングルが発表されたため、クレイマーのイメージに、常にビートルズの影が付いてくるようになってしまった。そのイメージを払拭するため、4枚目のシングルにはモート・シューマン作曲の「リトル・チルドレン」を収録。このシングルもチャートの1位を獲得。アメリカのBillboard Hot 100でも7位を記録し、キャリア最大のヒットとなる。5枚目のビートルズ提供曲のシングル「フロム・ア・ウィンドウ」が10位を記録[2]。
1965年に発表されたバート・バカラック作の「トレインズ・アンド・ボート・アンド・プレインズ」(汽車と船と飛行機と)がチャートの12位を記録するが、その後のシングルではチャートを賑わす事がなく、クレイマー自身の人気も失速していく[2]。ザ・ダコタスとも袂を分かち、1966年パーロフォンを辞め、レコード会社を転々とする。
その後も活動を続け、シングルも出すが、話題を呼ぶ事はなかった。
発売年 | A面 | B面 | 最高位 (UK)[4] |
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1963年 | Do You Want To Know A Secret? | I'll Be On My Way | 2位 |
1963年 | Bad To Me | I'll Call Your Name | 1位 |
1963年 | I'll Keep You Satisfied | I Know | 4位 |
1964年 | Little Children | They Remind Me Of You | 1位 |
1964年 | From A Window | Second To None | 10位 |
1965年 | It's Gotta Last Forever | Don't Do It No More | - |
1965年 | Trains And Boats And Plains | That's The Way I Feel | 12位 |
1965年 | Neon City | I'll Be Doggone | - |
1966年 | We're Doing Fine | Forgive Me | - |
1966年 | Take My Hand | You Make Me Feel Like Someone | - |
1967年 | Chinese Girl | Town Of Tuxley Toymaker | - |
1968年 | His Love Is Just A Lie | 1941 | - |
1968年 | World Without Love | Going Through It | - |
1969年 | Colour Of My Love | I'm Running Away | - |