ビル・ダンディー | |
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プロフィール | |
リングネーム |
スーパースター・ビル・ダンディー ウィリアム・ダンディー サー・ウィリアム スクワイア・ウィリアム |
本名 | ウィリアム・クルックシャンクス |
ニックネーム |
小型炸裂弾 スーパースター |
身長 | 170cm[1] - 175cm[2] |
体重 | 97kg(全盛時)[1] |
誕生日 | 1943年10月24日(81歳) |
出身地 |
イギリス スコットランド ダンディー |
トレーナー | ジャッキー・ファーゴ |
デビュー | 1967年 |
ビル・ダンディー(Bill Dundee、本名:William Cruickshanks、1943年10月24日 - )は、スコットランド出身の元プロレスラー。
全盛時はアメリカ合衆国のテネシー地区を主戦場に、ジェリー・ローラーの宿敵および盟友として活躍した[1][2]。息子のJ・C・アイスことジェイミー・ダンディーもプロレスラーである。
幼少時にスコットランドのダンディーからオーストラリアのメルボルンに移住。サーカスのアクロバットを経て、1967年にジム・バーネット(後のGCWプロモーター)が当時オーストラリアで主宰していた団体にてデビュー[1]。出身地をリングネームに用い、ウィリアム・ダンディー(William Dundee)の名義で1970年代前半までオーストラリアで活動した[1]。
1974年にアメリカへ渡り、テネシーのNWAミッドアメリカ地区に定着。ベビーフェイスのスーパースター・ビル・ダンディー("Superstar" Bill Dundee)を名乗り、ヒール時代のジェリー・ローラーをはじめ、モンゴリアン・ストンパー、トージョー・ヤマモト、ジプシー・ジョー、ロジャー・カービー、デビッド・シュルツ、デニス・コンドリー、フィル・ヒッカーソンらと激闘を展開[3][4][5]、1977年にはローラーを相手にNWA南部ヘビー級王座を巡る抗争を繰り広げた[6]。なお、ダンディーはホンキー・トンク・マンに先駆け、自身と同じくケルト系の出自を持つメンフィス出身のエルヴィス・プレスリーへのオマージュとして、ジャンプスーツをリングコスチュームにしていた[2]。
1970年代末にローラーとジェリー・ジャレットがテネシー州メンフィスにCWAを発足させると、ブッカー兼任の主力ベビーフェイスとして同団体に参戦。以降1980年代全般に渡ってCWAを主戦場に、フェイスターンしたローラーやトミー・リッチと組んでタッグ王座を再三獲得。シングルではロン・バス、ポール・エラリング、テリー・テイラー、ダッチ・マンテルらを破り、NWAからAWAの認定タイトルとなった南部ヘビー級王座を(NWA認定時代を含め)通算13回獲得した[6]。新設されたCWA世界ヘビー級王座にも、1980年8月4日にビル・ロビンソンを破って戴冠している[7]。軽量級戦線でも活躍し、1981年6月1日にスタン・レーンを下してCWA認定のUSジュニアヘビー級王座を獲得[8]。他地区ではビル・ワットが主宰していたMSWAにて、1984年11月7日にエイドリアン・ストリートからTV王座を奪取した[9]。
また、状況に応じてヒールターンを行い、1980年代半ばにはローラーとの抗争劇を(フェイスとヒールのポジションを入れ替えた形で)再現した[10]。その後はベビーフェイスに戻り、再びローラーと組んでリッチ&オースチン・アイドルと抗争を展開[11]。1987年7月6日にはロッキー・ジョンソンをパートナーに、ポール・ダイヤモンド&パット・タナカのバッド・カンパニーからCWAインターナショナル・タッグ王座を奪取[12]。10月にはローラーとのコンビでAWA世界タッグ王座を2回獲得した[13]。
1989年からはCWAの後継団体であるUSWAに参戦し、トム・プリチャード、ダニー・デービス、エリック・エンブリーなどを相手に主にジュニアヘビー級戦線で活動。1992年6月には、当時USWAと接点を持っていたW★INGプロモーションの招聘で初来日が実現[2]。W★ING認定世界ジュニアヘビー級王座の初代王者決定リーグ戦に出場して、ジミー・バックランドと決勝を争った[14]。
1993年にUSWAはWWFとの提携を開始するが、ダンディーはUSWAを離脱してヒールのマネージャーとしてWCWに登場。英国紳士ギミックのサー・ウィリアム(Sir William)に変身し、ロード・スティーブン・リーガルのセコンド役を担当した[15]。また、当時のWCWではリック・フレアー、ケビン・サリバン、グレッグ・ガニア、マイク・グラハムらと共に、ブッキング・コミッティの常任メンバーとなってプロデュース業務にも携わっていた[16]。
その後はUSWAに復帰して、1995年2月25日にフラッグシップ・タイトルの統一世界ヘビー級王座をローラーから奪取したが、4月3日にレイザー・ラモンに敗れ短命王者に終わっている[17]。タッグでもローラーとのコンビを復活させ、息子のJ・C・アイスとウルフィー・Dの "PG-13" やバート・ソイヤー&フレックス・カバーナなどのチームを破り、USWA世界タッグ王座にも就いた[18]。また、PG-13が1996年にWWF入りした経緯もあり(ファルーク率いるネーション・オブ・ドミネーションの初期のエスコート役を担当)、自身も当時のWWFの下部団体OVWに出場。1997年11月、バトルロイヤルに優勝してOVWヘビー級王者に認定された[1]。
2000年代にセミリタイアし、テネシー州ジャクソンでバーを経営する一方、メンフィス周辺のインディー団体にレジェンドとしてスポット参戦している[1]。