ビル・デモット | |
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プロフィール | |
リングネーム |
ビル・デモット ジェネラル・レクション キャプテン・レクション ヒュー・モラス クラッシュ・ザ・ターミネーター スウィート・ウィリアムス |
本名 | ウィリアム・チャールズ・デモット二世 |
ニックネーム | 肉弾粉砕者 |
身長 | 188cm |
体重 | 130kg(全盛時) |
誕生日 | 1966年11月10日(58歳) |
出身地 |
アメリカ合衆国 フロリダ州 ブレバード郡タイタスヴィル |
トレーナー | ジョニー・ロッズ |
デビュー | 1990年 |
ビル・デモット(Bill DeMott、本名:William Charles DeMott II、1966年11月10日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州タイタスヴィル出身。
1990年代から2000年代にかけて、大型のラフ&パワーファイターとしてWCWやWWFで活動した[1]。巨漢ながらムーンサルトプレスを軽々とこなす身体能力を持ち、近年はトレーナーとしても活躍している[2]。
ニューヨークのブルックリンにあるジョニー・ロッズのスクールでトレーニングを積み、1990年にデビュー[1]。スウィート・ウィリアムスの名義で東部地区のインディー団体を転戦後、1992年にプエルトリコのAWFにて、ロード・ウォリアー・アニマルのビジュアル・イメージをコピーしたクラッシュ・ザ・ターミネーター(Crash the Terminator)に変身する[1]。
同年9月、ビクター・キニョネスのブッキングでW★INGプロモーションに初来日。以降もW★INGの主力外国人選手となって活躍し、11月6日には札幌中島スポーツセンターにて、ミスター・ポーゴとのコンビでザ・ヘッドハンターズからW★ING認定世界タッグ王座を奪取[3]。翌1993年7月11日の横浜文化体育館では、16人参加のトーナメント決勝でゴリアス・エル・ヒガンテを破り、W★ING認定世界ヘビー級王座の初代王者となった[4]。
その後ECWを経て、ケビン・サリバンの仲介で1995年9月からWCWに登場。いつもニタニタ笑っている "The Laughing Man" というキャラクター設定のもと、ユーモラスを捩ったヒュー・モラス(Hugh Morrus)のリングネームが与えられ、サリバン率いるダンジョン・オブ・ドゥームの一員となって活動。1996年3月には「ヒュー・モアーズ」の表記で新日本プロレスに初参戦した。
以降も中堅ヒールのポジションでWCWに定着、1997年9月22日の『マンデー・ナイトロ』では、ビル・ゴールドバーグの連勝ストーリーにおける最初の犠牲者となっている[1]。1999年からはジミー・ハートのファースト・ファミリーに加入、ブライアン・ノッブスやザ・バーバリアンと共闘し、ハードコア戦線を中心に活動した。
2000年下期にベビーフェイスに転向し、エリック・ビショフから戦力外通告を受けたという設定のもと、ブッカー・Tやチャボ・ゲレロ・ジュニアらと共に、ミスフィッツ・イン・アクション(Misfits in Action)なるミリタリー・スタイルのユニットを結成[5]。ジェネラル・レクション(General Rection)を名乗ってユニットのリーダー格となり、同年10月29日にランス・ストーム&ジム・ドゥガンとのハンディキャップ・マッチを制してUSヘビー級王座を獲得[6]、初のメジャータイトル戴冠を果たした[2]。
また、11月16日にドイツにて開催されたPPV "Millennium Final" ではドイツ出身のアレックス・ライトのパートナーとなり、ナチュラル・ボーン・スリラーズのショーン・オヘア&マーク・ジンドラックからWCW世界タッグ王座を奪取している[7][8]。
2001年、ワールド・レスリング・フェデレーション・エンターテインメントのWCW買収に伴いWWFに移籍し、6月4日放送の『ロウ・イズ・ウォー』におけるケイン対クリスチャンのインターコンチネンタル王座戦に乱入[1]。WCWとECWの連合軍として結成されたアライアンスのメンバーとなり、WWF正規軍との軍団抗争アングルに参入した。
アングル終結後の2002年は当時のWWFの下部団体HWAに出場し、3月12日にレイヴェンと組んでランス・ケイド&スティーブ・ブラッドリーからHWAタッグ王座を奪取している[9]。同年下期には本名のビル・デモット(Bill DeMott)の名義で新人選手発掘番組『タフ・イナフ』第3シリーズのトレーナーに起用され、前任者のタズやボブ・ホーリーが担当していた鬼教官の役どころを受け持った[1]。
以降はリングネームもビル・デモットに変更し、『スマックダウン』のアンダーカードで活動。2003年10月からはダイジェスト番組 "Velocity" のカラー・コメンテーターも担当した[1]。その後はWWEの専属トレーナーとなり、ファーム団体DSWにて若手選手の指導・育成に携わっていたが、2007年1月の契約満了に伴いWWEを解雇された[10]。
以後、ノース&サウスカロライナのCWAやバージニアのUWFなどのインディー団体へのスポット出場を経て、2011年に『タフ・イナフ』新シリーズのトレーナーとしてWWEと再契約[2]。2012年6月からはNXTのヘッドトレーナーに就任したが、2015年3月6日、NXT所属選手に対する体罰が噂されるようになり、辞任することになった[11]。