ピエトロ・ブラッチ Pietro Bracci | |
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作者不詳の肖像画 | |
生誕 |
1700年6月16日 ローマ |
死没 |
1773年2月13日 (72歳没) ローマ |
ピエトロ・ブラッチ(Pietro Bracci、1700年6月16日[1] - 1773年2月13日)は、イタリアの彫刻家である。ローマの「トレヴィの泉」のオーケアノスの像を制作したことが最も有名である。
ローマで生まれた。ローマで画家のジュゼッペ・バルトロメオ・チアリと彫刻家のカミーロ・ルスコーニ(Camillo Rusconi: 1658-1728)の学生になった。1734年にローマ教皇ベネディクトゥス13世のサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会の墓標(モニュメント)を制作した。この墓標は建築家のカルロ・マルキオンニ(Carlo Marchionni: 1702-1786)が設計した。1763年からベネディクトゥス14世のサン・ピエトロ大聖堂の墓標も、弟子のガスパーレ・シビリア(Gaspare Sibilia)とともに完成させた。イングランド・スコットランドの王位請求者、ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートの妃、マリア・クレメンティナ・ソビエスカのサン・ピエトロ大聖堂の墓標も1742年に制作した[1]。
最もよく知られたブラッチの作品は、ローマのトレヴィの泉の装飾彫刻におけるオーケアノスの像の制作などである。トレヴィの泉はクレメンス12世によって製作が命じられ、ニコラ・サルヴィ(Nicola Salvi: 1697-1751)の設計が選ばれた。オケアノスの像も当初、ジョバンニ・バッティスタ・マイニ(Giovanni Battista Maini: 1690–1752)が担当した。ブラッチは、亡くなったマイニやサルヴィの仕事を引き継ぎ、1862年に完成させた[1]。
1756年にローマの美術アカデミー、アカデミア・ディ・サン・ルカの1年任期の会長も務めた。
1773年にローマで亡くなった。息子のヴィルジニオ・ブラッチ(Virginio Bracci: 1738-1815)は建築家、彫刻家になった。孫のファウスティナ・ブラッチ・アーメリーニ(Faustina Bracci Armellini: 1785–1857)はパステル画家になった。[2]