ピエール・ブロンベルジェ(ブローンベルジェとも、フランス語: Pierre Braunberger、1905年7月29日 - 1990年11月17日)は、フランスの映画プロデューサー、俳優。
1905年7月29日、フランス・パリの医者の家庭に生まれる。
7歳のときに、父親とおなじ生業、つまり医者を継がないことをすでに決定されていた。ゴーモン劇場 (Gaumont Théâtre) で映画『ファントマ』のあるエピソードを観ているときに、映画館で働くことを決意する。
第一次世界大戦後、まだ15歳になったばかりであったが、彼の最初の映画作品 Francfort-sur-le-Main をプロデューサー兼監督としてドイツで撮影した。ベルリンへつづけて冒険に旅立ち、ロンドンへはブロックリスに働きに出た。
1923年、アメリカ・ニューヨークへ旅立ち、20世紀フォックス社で数週間働き、次に製作責任者として過ごす。フェルディナンド・H・アダムのところへ入り、俳優フランク・メリル(英語版)の映画を何本か監督した。ロサンゼルスでの撮影の間、アーヴィング・タルバーグのアシスタントの一人として、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約した。彼は当地に18か月間留まり、当時最大の映画監督たちと接触し、その関係を定着させることができた。
フランスで演出や製作をすることを望み、パリに戻ってジャン・ルノワールと知己を得て、彼とともに『水の娘』(la Fille de l'eau)、『女優ナナ』(Nana)、『のらくら兵』(Tire-au-flanc) を撮る。
1929年、レ・プロデュクション・ピエール・ブロンベルジェ社および Néofilms社を設立、同社初のフランス語トーキー映画、ロバート・フローリー監督の La route est belle を製作。
1930年、映画館「シネマ・デュ・パンテオン(フランス語版)」の責任者となり、以後60年間に渡りそれを続ける。ホールを修繕し、450席を設けてウェスタン・エレクトリック社製の音響システムを設置した。字幕スーパーがまだ発明されないのに対して、ブロンベルジェは原版で外国映画を流した最初の人物である。
その1年後、映画製作のために、映画監督ロジェ・リシュベー(フランス語版)と組み「ブロンベルジェ=リシュベー事業所」を設立。ロバート・フローリー監督のLe Blanc et le Noir 、ジャン・ルノワール監督の『牝犬』(la Chienne)、マルク・アレグレ監督のLa Petite Chocolatière 、Fanny など、いくつかの映画が生まれた。
1933年、28歳になり、単独で続けることを決意。「ビヤンクール撮影所(フランス語版)」を新たに取得、同撮影所はのちの「パリ・ステュディオ・シネマ」である。
第二次世界大戦末、ゲシュタポ地方支署を撮影スタジオ「ステュディオ・ルモン」に改装、その場所がジャン=ピエール・メルヴィル、ジャン=リュック・ゴダール、アラン・レネといったヌーヴェルヴァーグの新しい才能を彼に発見させた。
1966年、第16回ベルリン国際映画祭の審査委員長を務める。
1990年11月17日、死去。
1920年代 - 1940年代
1950年代
- Toulouse-Lautrec (1950年)
- Histoire des pin-up girls (1950年、マルセル・ジボー監督)短編
- ゲルニカ Guernica (1950年、アラン・レネ監督)短編
- Gauguin (1950年、アラン・レネ監督)短編
- Le Tampon du capiston (1950年、モーリス・ラブロ監督)
- Station mondaine (1951年、マルセル・ジボー監督)短編
- Palais royal (1951年、ジャン・ブランジェ監督)
- La Course de taureaux (1951年、ピエール・ブロンベルジェ監督)ドキュメンタリー
- Le Dictionnaire des pin-up girls (1951年、マルセル・ジボー監督)
- L'Art du haut-rhénan (1951年、マルセル・ジボー監督)短編
- Bertrand cœur de lion (1951年、ロベール・デリ監督)
- En quête de Marie (1952年、マルセル・ジボー監督)短編
- Avec André Gide (1952年、マルク・アレグレ監督)
- Le Crime du Bouif (1952年、アンドレ・セルフ監督)
- Jocelyn (1952年、ジャック・ド・カザンブロ監督)
- Chagall (1953年)
- Julietta (1953年、マルク・アレグレ監督)
- Croissance de Paris (1954年、マルセル・ジボー監督)短編
- Ballade parisienne (1954年、マルセル・ジボー監督)短編
- Visages de Paris (1955年、フランソワ・レシャンバック監督)短編
- Une lettre pour vous (1955年、アンドレ・ヴェチュスト監督)短編
- New York ballade (1955年、フランソワ・レシャンバック監督)短編
- Impressions de New York (1955年、フランソワ・レシャンバック監督)短編
- Toute la mémoire du monde (1956年、アラン・レネ監督)短編
- Houston, Texas (1956年、フランソワ・レシャンバック監督))短編
- Le Grand sud (1956年、フランソワ・レシャンバック監督)短編
- 王手飛車取り Le Coup du berger (1956年、ジャック・リヴェット監督)短編
- Les Abeilles (1956年、ギイ・デュイ監督)短編
- Moi un noir (1958年、ジャン・ルーシュ監督)
- Elèves-maîtres (1958年、アンドレ・ヴェチュスト監督)短編
- Le Chant du styrène (1958年、アラン・レネ監督)短編
- Ces gens de Paris (1958年、アンリ・ファビアーニ監督)短編
- Bonjour, Monsieur La Bruyère (1958年、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ監督)短編
- Au bon coin (1958年、ジャン・ケルシュブロン監督)短編
- L'Américain se détend (1958年、フランソワ・レシャンバック監督)短編
- 男の子の名前はみんなパトリックっていうの Charlotte et Véronique, ou Tous les garçons s'appellent Patrick (1959年、ジャン=リュック・ゴダール監督)短編
1960年代
1970年代
1980年代 -
ゴダールがブロンベルジェについてこう語っている。「多くの人々が映画を愛していました、親愛なるピエール。そして、ごくごく少数の人が映画に愛されていました。あなたはその後者です」。