ピエール・マーチン | |
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プロフィール | |
リングネーム |
ピエール・マーチン フレンチ・マーチン フレンチ・マーテル ピエール・マーテル マッドドッグ・マーチン ドン・ガニア |
本名 | ジャン・ガニエ |
ニックネーム | 殺人コンバット |
身長 | 185cm - 188cm |
体重 | 115kg - 120kg |
誕生日 | 1947年7月19日[1] |
死亡日 | 2016年10月21日(69歳没)[2] |
出身地 |
カナダ ケベック州 ケベック・シティー |
デビュー | 1971年[3] |
引退 | 1990年 |
ピエール・マーチン(Pierre Martin、本名:Jean Gagné、1947年7月19日 - 2016年10月21日)は、カナダのプロレスラー。ケベック州ケベック・シティー出身のフランス系カナダ人。
フレンチ・マーチン(Frenchy Martin)またはフレンチ・マーテル(Frenchy Martel)のリングネームでも知られ、ヒールとしてカナダ各地やプエルトリコを主戦場に活動した[4]。
1971年(1968年説もあり[5])のデビュー後、地元ケベックのモントリオール地区をはじめ、カルガリーのスタンピード・レスリングやバンクーバーのオールスター・レスリングなど、カナダの各団体で活動[3]。アメリカにも進出し、ルイジアナ、テキサス、カンザスなど、NWAの傘下テリトリーを転戦した[3]。
1975年3月1日、プエルトリコのWWCにてカルロス・コロンからWWC北米ヘビー級王座を奪取[6]。同時期、同じくケベック出身のマイク・マーテルとフランス傭兵ギミックのタッグチーム、ザ・マーセナリーズ(The Mercenaries)を結成。3月8日にWWC北米タッグ王座を獲得し[7]、以降もプエルトリコおよびカナダ各地で活躍した[8]。
1975年11月、ザ・コンバット(The Combat)のチーム名でマーテルと共に国際プロレス『ビッグ・ウインター・シリーズ』に初来日[9]。11月3日の開幕戦でグレート草津&マイティ井上からIWA世界タッグ王座を奪取し[10]、11月21日のリターンマッチにも勝利して初防衛に成功[9]。12月2日の横浜文化体育館での金網タッグデスマッチによる再度のリターンマッチで草津&井上に奪還されたものの、一時はタイトルの海外流出が危ぶまれた[11]。マーチンはシングルでの実績も評価され、シリーズ最終戦の12月4日、後楽園ホールにてラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座にも挑戦した[12]。国際プロレスには、ジプシー・ジョーやギル・ヘイズが同時参戦した翌1976年10月開幕の『勇猛シリーズ』にもマーテルとのコンビで再来日し、王座返り咲きを狙って草津&井上に連続挑戦している[13]。
1978年に相棒のマイク・マーテルがプエルトリコにて死去[14]してからは、1979年1月22日にマイクの弟リック・マーテルとのチームでWWC北米タッグ王座を再び獲得[7]。同年4月、マッドドッグ・マーチン(Mad Dog Martin)と名乗って全日本プロレスの『NWAチャンピオン・シリーズ』に来日しているが、"Mad Dog" とはマイク・マーテルの異名でもあった。1980年5月23日にはミスター・フジと組んでブルドッグ・ブラワー&ルーク・グラハムを破り、WWC北米タッグ王座への4度目の戴冠を果たしている[7]。1981年1月の全日本プロレス『新春ジャイアント・シリーズ』への再来日では、プエルトリコでの盟友アブドーラ・ザ・ブッチャーともタッグを組んだ[15]。
1983年からは古巣のモントリオールやマリタイム地区を主戦場に活動。1984年7月には、当時カナダとの外国人選手招聘ルートを持っていた旧UWFの『UWF無限大記念日』に、フレンチ・マーテル(Frenchy Martel)のリングネームでレオ・バークやザ・UFOらと共に来日。2日目(7月24日)の興行ではメインイベントで前田日明と対戦し[16]、マーク・ルーインが外国人エースを務めた8月開幕の『ビクトリー・ウイークス』にも継続参戦した[17]。
1986年より、モントリオールのインターナショナル・レスリング(Lutte Internationale)と提携していたWWFの興行に、フレンチ・マーチン(Frenchy Martin)の名義でヒールのジョバーとして出場。WWFが同団体を買収した1988年からは、モントリオールのトップスターだったディノ・ブラボーのマネージャーを担当[1]、当時の4大PPV『レッスルマニア』『サマースラム』『サバイバー・シリーズ』『ロイヤルランブル』にもブラボーのセコンド役で登場した[18]。
1990年の中盤にWWFを離れ、そのままレスリング・ビジネスから引退。以後は、1999年8月にモントリオールで開催された "International Wrestling 2000" のリチャード・シャラン対キングコング・バンディ戦に、シャランのマネージャーとして登場[19]。同イベントはWWFを共にサーキットしたジャック・ルージョー・ジュニアらルージョー・ファミリーが主催し、ロニー・ガービン、ジミー・ガービン、ミシェル・デュボアなども出場した。
2016年10月21日、膀胱癌により69歳で死去[1][20]。