ピルサドスキー

ピルサドスキー
ウェインストック卿(バリーマッコル・スタッド)の勝負服
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1992年4月23日
死没 (現役種牡馬)
Polish Precedent
Cocotte
生国 アイルランドの旗 アイルランド
生産者 Ballymacoll Stud Co.
馬主 ウェインストック卿
調教師 Sir Michael Ronald Stoute(イギリス)
競走成績
生涯成績 22戦10勝
獲得賞金 71万2544ポンド
32万5000マルク
330万フラン
104万ドル
1億3494万
勝ち鞍
G1 バーデン大賞 1996年
G1 BCターフ 1996年
G1 エクリプスS 1997年
G1 愛チャンピオンS 1997年
G1 チャンピオンS 1997年
GI ジャパンC 1997年
G3 ブリガディアジェラードS 1996年
G3 ロイヤルウィップS 1996年
テンプレートを表示

ピルサドスキー (Pilsudski) とは、アイルランドで生まれたイギリスの元競走馬、および種牡馬である。1997年カルティエ賞最優秀古馬受賞。日本では1997年ジャパンカップ優勝馬として著名。

イギリス、アイルランド、ドイツフランスカナダ、日本で走り、ブリーダーズカップ・ターフ、ジャパンカップ、バーデン大賞エクリプスステークスチャンピオンステークスアイリッシュチャンピオンステークスに勝ち、日本で種牡馬となった。日本での産駒の成績は不振で、2003年にアイルランドへ再輸出された。

半妹には2002年の秋華賞エリザベス女王杯を勝ったファインモーション(父デインヒル)がいる。

現役時代

[編集]

1995年、3歳の夏に遅い初勝利をあげる。

1996年に下級重賞をいくつか勝ったあと、ドイツのバーデン大賞に遠征、初のG1競走挑戦ながら前年度の優勝馬ジャーマニーを下して優勝した。次にヨーロッパ最高峰の凱旋門賞に挑みエリシオの2着に好走し、さらに北米の芝レースの最高峰ブリーダーズカップ・ターフで僚馬シングスピールを下して優勝した。

1997年はヨーロッパで連戦し、エクリプスステークス、アイリッシュチャンピオンステークス、チャンピオンステークスの3つの中距離の大レースに勝ったが、中長距離路線のキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスと凱旋門賞ではそれぞれスウェインパントレセレブルの2着に敗れた。この年の11月に来日、ジャパンカップに出走。パドックでは激しく「馬っ気」(生殖器が勃起する状態の俗語)を出していた[1][2]が、人気のエアグルーヴらを破って優勝、このレースを最後に引退した。管理するマイケル・スタウト調教師にとっては前年のシングスピールに続く2年連続のジャパンカップ制覇となった[3]

この年のインターナショナル・クラシフィケーションの古馬中距離部門で、1位(134ポンド)となり、カルティエ賞の最優秀古馬に選出された。134ポンドは1990年代では7番目に高い数値で、エリシオやエルコンドルパサーと同評価である。

競走成績

[編集]
出走日 競馬場 競走名 距離 着順 騎手 着差 1着(2着)馬
1994.09.27 ニューマーケット 未勝利S 芝8f 6着 W.スウィンバーン 5馬身 Court of Honour
1994.10.11 レイセスター 未勝利S 芝8f 8着 R.コクレーン 9馬身 Mistinguett
1995.05.21 リポン 未勝利S 芝9f 2着 D.マッコン 2馬身 Elle Ardensky
1995.06.22 アスコット キングジョージV世H 芝12f 17着 K.ダーレイ 23馬身 Diaghilef
1995.07.12 ニューマーケット ケンブリッジ卿H 芝10f 1着 K.ダーレイ 2馬身 (Krystallos)
1995.07.26 グッドウッド ゴールドトロフィーH 芝12f 1着 W.スウィンバーン クビ (Rokeby Bowl)
1995.09.24 アスコット サンデースペシャルH 芝12f 3着 K.ダーレイ 1馬身 Taufan's Melody
1996.04.27 サンダウン ゴードンリチャーズS G3 芝10f7y 2着 K.ダーレイ 3馬身 Singspiel
1996.05.28 サンダウン ブリガディアジェラードS G3 芝10f7y 1着 P.J.エデリー 1/2馬身 (Lucky Di)
1996.06.18 アスコット プリンスオブウェールズS G2 芝10f 8着 P.J.エデリー 8馬身 First Island
1996.08.17 カラ ロイヤルウィップS G3 芝10f 1着 W.スウィンバーン 1 1/2馬身 (I'm Supposin)
1996.09.01 バーデンバーデン バーデン大賞 G1 芝2400m 1着 W.スウィンバーン 3/4馬身 (Germany)
1996.10.06 ロンシャン 凱旋門賞 G1 芝2400m 2着 W.スウィンバーン 5馬身 Helissio
1996.10.26 ウッドバイン BCターフ GI 芝12f 1着 K.ダーレイ 1 1/4馬身 (Singspiel)
1997.04.27 ロンシャン ガネー賞 G1 芝2100m 3着 M.キネーン 7 1/2馬身 Helissio
1997.06.20 アスコット ハードウィックS G2 芝12f 2着 M.キネーン 1/2馬身 Predappio
1997.07.05 サンダウン エクリプスS G1 芝10f7y 1着 M.キネーン 1 1/4馬身 (Benny the Dip)
1997.07.26 アスコット KGVI&QEDS G1 芝12f 2着 M.キネーン 1 1/4馬身 Swain
1997.09.13 レパーズタウン 愛チャンピオンS G1 芝10f 1着 M.キネーン 4 1/2馬身 (Desert King)
1997.10.05 ロンシャン 凱旋門賞 G1 芝2400m 2着 M.キネーン 5馬身 Peintre Celebre
1997.10.18 ニューマーケット チャンピオンS G1 芝10f 1着 M.キネーン 2馬身 (Loup Sauvage)
1997.11.23 東京 ジャパンC GI 芝2400m 1着 M.キネーン クビ (エアグルーヴ)

種牡馬成績

[編集]

JRAから日本軽種馬協会に寄贈された同馬は、北海道静内町で種牡馬となった。セレクトセールで産駒に1億円を超す値がつけられ[4]、「エリシオと並ぶポスト・サンデーサイレンスの有力候補」と評される[4]など、産駒デビューまでの前評判は高かった。ところが2001年にデビューした産駒は中央競馬の初年度勝ち上がりが0頭という不振ぶりで、その後も成績が上向くことはなかった。通算のコンパラブルインデックスは1.32[5]と、配合相手の繁殖牝馬の質は平均以上であったが、産駒のアーニングインデックスは年次別通算で0.36と平均を大きく下回った[5]

種付数は2001年に95頭であった[5]が、産駒デビュー後に大きく落ち込み、2002年は50頭、2003年は10頭であった[5]。2003年9月に買い戻されて日本を去り、アイルランドのアイリッシュ・ナショナルスタッドへ移った[6]。現在は障害競走用種牡馬として供用されている。

主な産駒

[編集]

母の父としての主な産駒

[編集]

名義貸し問題

[編集]

1997年の秋にピルサドスキーが凱旋門賞で2着になったあと、日本中央競馬会 (JRA) は同馬をウェインストック卿から購入した。まだ現役だったため、JRAはウェインストック卿に同馬をリースしてチャンピオンステークスとジャパンカップに出走した。JRAの規定では、JRAの主催する競走ではリース馬主を認めていない。名義貸しによる不透明な所有形態により、競走の公正さが失われるおそれがあるからという理由である[7]

ジャパンカップに出走する時点で、同馬はレース後に日本で種牡馬となることが決まっており、実質的な所有者であるJRAは種牡馬としての同馬の価値を高めるために八百長をして勝たせるのではないかといった疑惑や、主催者自ら禁止する名義貸しを行うことへの批判が提起された[7]

馬名問題

[編集]

ピルサドスキーの英名は「Pilsudski」で、20世紀初頭のポーランドの指導者であるユゼフ・ピウスツキの名に由来し、父Polish Precedent(和訳すると「ポーランドの先人」)からの連想である。ピウスツキ将軍はロシアからのポーランド独立のため、日露戦争の際に来日するなど、外交史や東欧史で知られた人物であり、国内の出版物や在ポーランド日本大使館のウェブサイト[8]でも「ピウスツキ」と表記されている。

JRAは当初「ピルスドゥスキー」という表記を採用していた[9]が、やがて「ピルサドスキー」に変更した[9]。「ピルスツキ」にすべきという批判があったとされるが[9]、JRAは当時の馬主のウェインストック卿に発音を確認した上で「ピルサドスキー」という表記が妥当と判断したという[9]。これに対してJRA賞馬事文化賞受賞者の山野浩一は、英語でないものを英語読みしたことに起因する「変な表記」「大きな間違い」であり、文部省の定める規則にも反するカナ転記だとした上で、「下手をすると外交問題に発展しかねない」「抗議がなければどのような失礼なことも許されるというものではない」とJRAとJBBAを批判した[7]

血統表

[編集]
ピルサドスキー血統ダンジグ系 / Petition 5×4=9.38% (血統表の出典)[§ 1]
父系 ダンジグ系
[§ 2]

Polish Precedent
1986 鹿毛
父の父
Danzig
1977 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Pas de Nom Admirals Voyage
Peririoner
父の母
Past Example
1976 栗毛
Buckpasser Tom Fool
Busanda
Bold Example *ボールドラッド
Lady be Good

Cocotte
1983 鹿毛
Troy
1976 鹿毛
Petingo Petition
Alcazar
La Millo Hornbeam
Pin Prick
母の母
Gay Milly
1977 鹿毛
Mill Reef Never Bend
Milan Mill
Gaily Sir Gaylord
Spearfish
母系(F-No.) 11号族(FN:11) [§ 3]
5代内の近親交配 Petition4×5 [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ ピルサドスキー(IRE) 5代血統表2017年8月30日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com ピルサドスキー(IRE) 5代血統表2017年8月30日閲覧。
  3. ^ JBISサーチ ピルサドスキー(IRE) 5代血統表2017年8月30日閲覧。
  4. ^ JBISサーチ ピルサドスキー(IRE) 5代血統表2017年8月30日閲覧。


脚注

[編集]
  1. ^ 『優駿』1998年1月号、p.10
  2. ^ ポニーキャニオン社から発売されているDVD『中央競馬G1レース1997総集編』で、はっきりとその様子を見ることができる。
  3. ^ 日本中央競馬会『優駿』1998年1月号、p.9,12
  4. ^ a b 桜井盛夫 (2001年7月13日). “連載 新世紀の種牡馬(2)ピルサドスキー、フサイチコンコルド”. 日刊スポーツ: p. 19 
  5. ^ a b c d 種牡馬情報:世代・年次別(サラ系総合)|ピルサドスキー (IRE)”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2021年7月9日閲覧。
  6. ^ ピルサドスキー、母国アイルランドへ”. netkeiba.com (2003年8月28日). 2011年7月29日閲覧。
  7. ^ a b c 『全日本フリーハンデ1997-1998』,山野浩一・著,リトル・モア・刊,2000、p238-241
  8. ^ 例えば以下の通り。
  9. ^ a b c d “【JRA】ピルスドゥスキー 呼称変更 ピルサドスキーに”. スポーツニッポン: p. 13. (1997年10月25日) 

外部リンク

[編集]