ピーター・アドルフ・ゼルキン | |
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生誕 |
1947年7月24日 ニューヨーク |
出身地 | アメリカ合衆国 |
死没 |
2020年2月1日(72歳没) ニューヨーク州レッドフック |
学歴 | カーティス音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ |
ピーター・アドルフ・ゼルキン(Peter Adolf Serkin, 1947年7月24日 - 2020年2月1日)は、アメリカ合衆国のピアニスト。ピーター・サーキンとも表記される。
父はピアニストのルドルフ・ゼルキンで、母は大ヴァイオリニスト、アドルフ・ブッシュの娘イレーネというニューヨークの音楽一家に生まれる。ピーターのミドルネーム「アドルフ」は、祖父アドルフ・ブッシュにちなんで名付けられたという[1]。
幼少期はカール・ウルリッヒ・シュナーベルからピアノを習う。1958年、11歳になったピーターはカーティス音楽院で音楽を勉強し始め、ポーランド出身のピアニストミエチスラフ・ホルショフスキ、アメリカ出身のピアニストリー・ルビージや父親ルドルフ・ゼルキンから指導を受けた。1965年に同音楽院を卒業。学んだ教師の中にはその他にエルンスト・オースター、マルセル・モイーズやカール・ウルリッヒ・シュナーベル等もいた。
1959年には、父ルドルフ、祖父アドルフ・ブッシュが設立者の一員であるマールボロ音楽祭に出演し、初めてのコンサート出演を果たす。その演奏後、ジョージ・セル率いるクリーヴランド管弦楽団やユージン・オーマンディ率いるフィラデルフィア管弦楽団などを含む、実力のあるオーケストラから出演依頼が届くようになる。
1966年、19歳のとき、グラミー賞にて最優秀クラシック・アーティスト新人賞を受賞。
1968年、結婚し子供が生まれてから間もない頃、ピーターは音楽を演奏することを全く辞める決意をした。そして1971年の冬、彼は妻ウェンディと小さい娘のカリーナを連れてメキシコの田舎の小さな町に越した。その地で8ヶ月が過ぎて行った。日曜日のある朝、ピーターは隣家のラジオからヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽が流れてくるのを聴いた。その音楽を聴いているうちに、「やはり僕は演奏をするべきなのだ、という気持ちが、触知できるほど明らかになっていくのが分かった」と彼は言う。そして休暇を終え、アメリカに帰ると、彼は改めて音楽家となった[2]。
1973年には、メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」を勉強する為に、リチャード・ストルツマン、アイダ・カヴァフィアン、フレッド・シェリーらと共に現代音楽演奏団体「タッシ」を結成した。同年5月には、西武劇場(現・パルコ劇場)の同劇場オープニング記念講演である第1回「Music Today」(武満徹プロデュース)に出演[3](「タッシ」としてではなく単独でピアニストとして)。
1976年、来日してピアノ演奏会を開催する予定であったが、直前に病気を理由にキャンセルとなった[4]。
また、1978年5月〜6月開催の第5回「Music Today」(於・西武劇場)にタッシとして出演した[5]。
2020年2月1日、膵臓がんの為にニューヨーク州レッドフックの自邸にて死去[6]。72歳没。
若い頃は父ルドルフに反発していたため、ルドルフは指揮者の小澤征爾にピーターの面倒を頼んだ[7]。こうしてピーターは18歳ごろから小澤と交流するようになり、トロントやラヴィニアで演奏を重ね、長い友人付き合いをするようになった[8]。ピーターは父が得意としたベートーヴェンを演奏したかったが、父と同じことはしたくないという思いから、ピアノ協奏曲第6番などのあまり演奏されない作品を手掛けた[9]。