ファシズム |
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ファシズムの定義は、ファシズムやファシストの政府や統治に関する、定義や認識や簡潔な説明である。しかし、その見解は多くの学者の間で非常に異なっており統一的な合意は存在しない。ここでは主要な歴史学者や政治学者、政治家などによる、ファシズムやその中核となる信条の説明を記載する。
多くの学者の見解では、ファシストによる体制(fascist regime)は最も権威主義的な統治形態のひとつであるが、権威主義的な体制の全てがファシストによる体制ではない。ファシストによる体制は権威主義の特徴を持っているが、明確な特徴が必要である。
同様にイデオロギーとしての「ファシズム」も定義が困難である。ファシズムの起源は、イタリアという1国家でベニート・ムッソリーニのリーダーシップのもとで行われた、30年間弱の期間に存在し、そのうち1922年から1943年には統治した、サンディカリズムとコーポラティズムに結び付けられた政治運動である。仮に「ファシズム」の定義をオリジナルのイタリアのファシズムに限定する場合は、「ファシズム」はイタリアの政治以外への影響は少ない。多くの学者は「ファシズム」の用語を、より広い意味で、その思想やグループの影響を受けたより多くの国や多くの時代について使用する傾向がある[1]。
このため学者により「最小限のファシスト」(fascist minimum)という識別が考えられた。最小限のファシストとは、ファシストと考えるための一定の政治的集団の条件に合致したものである。また何人かの学者はファシズムの終末論的、千年王国的な側面を調査した[2][3][4][5][6][7][8]。多数の学者によれば、ファシズムには社会運動として左と右の両方の影響があるが、特に権力獲得後のファシズムは歴史的には共産主義や保守主義や議会制民主主義を攻撃したため、主に極右からの支持を引きつけた。
ベニート・ムッソリーニは以下の発言をした[9]。
ファシストの国家の概念は、全く包括的なものである。国家の外には人間的または精神的な価値は、存在できないか、僅かしか存在できない。この理解により、ファシズムは全体主義であり、統合された、全ての価値を含むひとつのユニットであるファシストの国家は、ひとりの人間の全ての生命や生活を、演奏し開発し強化する。
ファシズムはひとつの宗教的な概念であり、そこでは人は上位の法との内在的な関係でみられ、個人を超越しようとする客観的な意思を持ち、崇高な社会の意識的な構成要員に引き上げられる。このファシストの体制の宗教的な政治には誰でも存在できるが、例外はファシズムの政府システムや更には思想も同様であると気がつかない僅かなオプチュミストだけである。
イタリアのサンディカリスムの理論家で、後にファシズムの理論家となったセルジオ・パヌンツィオは、以下の発言をした。
ファシストは、構築されたアナキスト(Constitutional-Anarquist)の一種である。
第32代アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトは以下の発言をした。
アメリカ合衆国のジャーナリストのジョン・フリン(en:John T. Flynn)は、1944年の論争の著作「As we go marching」[13]で、彼が資本主義を転覆させると考え出した社会主義や社会民主主義の傾向を攻撃した。彼はファシズムを、イタリアのムッソリーニの分析を基礎として以下のように特徴づけた。
イタリアの作家で学者のウンベルト・エーコは、1995年の小論文「永遠のファシズム」で、ファシストのイデオロギーの一般的特徴を一覧にすることを試みた[14]。彼は、これらを理路整然とした体系に組織化するのは困難だが、しかし「それらの1つが表れてファシズムが凝固する事を許すならば充分だ」と述べた。彼は、ファシズムの異なった歴史上の体制の汎用的な記述を表す用語として「Ur-fascism」を使用した。彼が一覧化したファシズムの特徴は以下である。
- 伝統の狂信的集団 - 文化的なシンクレティズムと結びつき、近代主義を却下する(しばしば資本主義の却下と偽装する)
- 行動のための行動の狂信的集団 - 行動は自分自身の価値であり、知的な反応なしで受け入れられなければならないと命令する。これは反知性主義や非合理主義に繋がり、しばしば近代文化や科学への攻撃の宣言となる。
- 意見の不一致は反逆 - ファシズムは、知的な会話や重要な論理的思考を、行動への障害として価値を下げる。
- 防衛の恐怖 - ファシズムは、人種差別の体制や、外国人や移民に対するアピールで、英雄的行為や憤慨させる事を求める。
- 欲求不満の中産階級へのアピール - 需要や、社会的な低層集団の強い願望からの、経済的な圧力。
- 陰謀の強迫観念 - および敵の脅迫の停止。これはしばしば外国人嫌悪のアピールや、国内の安全保障上の脅威の認識を含む。(彼は陰謀の強迫観念の有名な例を、パット・ロバートソンの書籍「The New World Order」から引用した。)
- 平和主義は敵との不正取引 - なぜならば「人生は常に戦争状態」、常に戦うべき敵がいるに違いない。
- 弱点への侮辱 - しかしファシスト社会はエリート主義で、社会の全員は英雄になると教育される。
- 選択的なポピュリズム - 人々は共通の意思を持つ、それは委譲されないが、指導者によって介入される。これは民主的な制度を演じられる疑いを含む、なぜならば「もはや民衆の声を代表しない」。
- ニュースピーク - ファシズムは危険な論理を制限するために、貧しくされた語彙を採用し推進する。
1935年には、ファシストの政治運動はヨーロッパ諸国で力を持ち、共産主義者の組織としばしば暴力行為が行われたため、マルクス主義者にとって「ファシズム」を正確に定義する事が、闘うために重要になった。このためコミンテルンは以下の定義を発行した。
マルクス主義者の多くは、コミンテルンのメンバーではない者を含め、この定義に賛成した。マルクス主義者は、ファシズムは支配階級(特に資本主義者のブルジョワジー)が直面している差し迫ったプロレタリア革命に対して、その権力を維持するための最後の試みとして登場した、と論じた。ファシストの運動は必ずしも支配階級によって「作られた」ものではなかったが、彼らは支配階級の援助により政治的な力を得る事によって、大きなビジネスから収益を上げることができた。そして権力掌握後、ファシストは彼らの後援者に利益を供与した。(全ての資本家にはその利益は必要でなかったが、彼らに権力を与えた特定の資本家には利益を供与した。)[要出典]
レフ・トロツキーは以下のように記した。
イタリア共産党設立者のアマデーオ・ボルディーガ(en:Amadeo Bordiga)は、ファシズムに対して少し異なった見解を採用した。彼はファシズムは、ブルジョワジーの規則の少し異なった形態であり、ブルジョワ民主主義や伝統的な王政と同じレベルとみなした。彼はファシズムを、特別に反動であるとか、何らかの例外であるとは信じなかった[16]。
「マルクス主義者の百科事典」は、ファシズムを「右翼、猛烈なナショナリスト、哲学における主観論者、実践における全体主義者」と定義し、その特定を「資本主義の政府による極端な反動」としたが、この伝統的な定義を超えて以下のファシズムの9つの基本的な特徴もリストした[17]。
- 右翼:ファシストは、マルクス主義、社会主義、アナキズム、共産主義、環境主義などを猛烈に攻撃する。本質的には、近代的左翼(社会民主主義など)を含む進歩的左翼全体を攻撃する。ファシズムは極右思想であり、オポチュニズム的と考えられる。
- ナショナリズム:ファシズムは愛国心やナショナリズムを非常に強く強調する。(以下略)
- 階層:ファシストの社会は正義の指導者により統制されるが、彼はエリートで秘密の資本家の先導者によって支援される。(以下略)
- 反平等主義:ファシストは経済的平等や、移民と市民の間の平等の原則を嫌う。(以下略)
- 宗教性:ファシズムは、非常に大量な反動的で宗教的な信念を持ち、宗教がストイックで抵抗で純粋だった時代を思い起こさせる。(以下略)
- 資本主義者:ファシズムは資本主義から脱出する革命を求めない。(以下略)
- 戦争:ファシズムは不能な帝国主義段階にある資本主義である。(以下略)
- ボランティア思想:ファシズムは一種の「ボランティア主義」を採用し、意思の力を信じ、もし充分に力があれば、全てを真実にする。(以下略)
- 反現代:ファシズムは全ての種類の近代主義を嫌い、特に芸術の創造性や、あるいは生活を反映した芝居、または視点からの急速な逸脱や革新を嫌う。
無政府資本主義者(アナルコ・キャピタリスト)による定義には以下がある。
コロンビア大学名誉教授のロバート・パクストンは著書「ファシズムの解剖学」で多数のファシズム論を比較し、単なる資本主義論や全体主義論、暴力主義論、中産階級支持論などの従来の定義は断片的・一面的であるとして、ファシズムの特徴を以下のように定義した。
- 情熱の動員
- 自由な制度の断念
- 集団の圧倒的危機感
- 集団の優越感
- 自分の集団が犠牲者との確信
- 純化された世界を目指す強力な統合への追求
- 集団の成功にささげる暴力という美と意思という力
谷沢永一は著書『広辞苑の嘘』でファシズムという言葉を言語として定義づけるのは非常に難しいとしている。ファシズムは自ら規定を行なっておらず、ファシズムを敵とした人民戦線も定義できなかった[19]。「コミンテルンから敵と思われているものがファシズムである」が、比較的分かりやすい定義であり、敵を罵るときに使う言葉としている[19]。例としてコミンテルンの「国際ファシズムおよびそれとの闘争手段」(1929年3月10日付)という一文を取り上げ、あれこれ言及しているだけで、気に入らない者はみんなファシズムであり、ファシズムは悪とされているとしている[19]。
西義之は「革新陣営からなにかにつけて、相手をただやっつける言葉として投げつけられる語」と言い、歴史上のファシズムが反共であったことは確かだが、反共がファシズムであったというのは真実ではないとしている。共産主義は天皇制廃止、企業国有化、私有財産否定、宗教否定、言論・思想の規制などの面があり、その一つからいくつかに対する反対の立場が有り得るゆえ、その「反共」がファシズムであると決めつけることは単純な二元論に過ぎないと述べている[20]。