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名前 | ||||||
本名 | ファルハード・マジーディー・ガディーコラーイー[1] | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 | 1976年6月3日(48歳) | |||||
出身地 | テヘラン[1] | |||||
身長 | 177cm | |||||
選手情報 | ||||||
ユース | ||||||
1993–1995 | バフマン | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1995–1997 | バフマン | 19 | (7) | |||
1997–1999 | エステグラル | |||||
2000 | ラピード・ウィーン | 12 | (2) | |||
2000 | エステグラル | 3 | (0) | |||
2000–2006 | アル・ワスル | |||||
2003 | → アル・アイン (ローン) | 3 | (1) | |||
2006 | → アル・アハリ・ドバイ (ローン) | (6) | ||||
2006–2007 | アル・ナスル | 14 | (4) | |||
2007 | アル・アハリ・ドバイ | 9 | (1) | |||
2007–2013 | エステグラル | 118 | (39) | |||
2012 | → アル・ガラファ (ローン) | 15 | (6) | |||
通算 | 229 | (116) | ||||
代表歴 | ||||||
1996–2011 | イラン | 45 | (10) | |||
監督歴 | ||||||
2018-2019 | エスパニョール-U16 (アシスタント) | |||||
2018-2019 | エステグラル (アシスタント) | |||||
2019 | エステグラル (監督代行) | |||||
2019 | イラン U-23 | |||||
2019-2020 | エステグラル | |||||
2021-2022 | エステグラル | |||||
2022- | アル・イテハド・カルバ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ファルハード・マジーディー (1976年6月3日 - 、ラテン文字:Farhad Majidi、ペルシア語: فرهاد مجیدی ) は、イラン・テヘラン出身の元プロサッカー選手、元同国代表選手である。現役時代のポジションはMF。現在はエステグラルFCの監督を務めている。2010年、マジーディーはアジア年間最優秀選手賞の候補に選ばれ、投票により2位を獲得した。IFFHSにより、2010年度最も人気のあった現役サッカー選手に認定された。
エステグラルで数年プレーした後、マジーディーはSKラピード・ウィーンからオファーを受けた。しかし、オーストリアへの完全移籍ではなかったため、エステグラルはその後UAEリーグのアル・ワスルFCへと移籍させた。
UAEリーグでは同じイラン人のアリーレザー・ヴァーヘディー・ニークバフトとともに、マジーディーは多くのゴールを挙げ得点王争いを演じた。しかしその後マジーディーは怪我のため戦列を離れ、得点王は獲得できなかった。
マジーディーのキャリアにおいて最も活躍した時期の一つがアル・アインFCへと短期間のローン移籍した期間である。マジーディーはAFCチャンピオンズリーグ2002-03準決勝の大連実徳戦で得点を挙げ、アル・アインFCをAFCチャンピオンズリーグ決勝の舞台に導いた。その後マジーディーはクラブ史上初となるAFCチャンピオンズリーグ (前身のアジアクラブ選手権も含む) の優勝を成し遂げた。
アル・ワスルFCでは5年間プレーし100以上のゴールを決めた。2006年にアル・ワスルを退団し、UAEのクラブアル・ナスルSCに加入した。
2007年2月10日、マジーディーはシーズン終了までアル・アハリ・ドバイと契約をかわした。シーズン終了後、マジーディーはエステグラルと一年契約をかわした。マジーディーはエステグラルとの契約をさらに2年間延長し攻撃的MFとして活躍、2008-09シーズンにはリーグ優勝の原動力となった。彼は2009-10シーズンも好調を維持しチームの得点王及びACLの得点王も獲得した。
2011年12月21日、マジーディーは個人的な事情からエステグラルを離れ、カタールのアル・ガラファSCに加入した[2]。
マジーディーは2012年9月28日にエステグラルが契約延長を拒否しチームスタッフとしての契約を打診したことでサッカー選手としての引退を発表したが [3][4]、後にこの発言を撤回、2012年12月18日に18ヶ月の契約を結び再びエステグラルでプレーすることになった[5]。
しかし、2013年10月29日に、契約が残ってるにもかかわらず突如引退を発表した[6]。
パフォーマンス | リーグ | カップ | 国際大会 | 合計 | ||||||
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シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール |
イラン | リーグ | ハズフィー・カップ | ACL | 合計 | ||||||
1996–97 | バフマン | アーザーデガーン・リーグ | 19 | 10 | ||||||
1999–00 | エステグラル | 14 | 4 | |||||||
オーストリア | リーグ | オーストリア・カップ | UEFAカップ | 合計 | ||||||
1999–00 | ラピード・ウィーン | ブンデスリーガ | 12 | 2 | ||||||
イラン | リーグ | ハズフィー・カップ | ACL | 合計 | ||||||
2000–01 | エステグラル | アーザーデガーン・リーグ | 3 | 0 | ||||||
UAE | リーグ | プレジデントカップ | ACL | 合計 | ||||||
2001–02 | アル・ワスル | UAEリーグ | 8 | 7 | ||||||
イラン | リーグ | ハズフィー・カップ | ACL | 合計 | ||||||
2001–02 | エステグラル | イラン・プロリーグ | 11 | 5 | ||||||
UAE | リーグ | プレジデントカップ | ACL | 合計 | ||||||
2002-03 | アル・ワスル | UAEリーグ | 12 | – | ||||||
→ アル・アイン | – | 4 | 1 | 4 | 1 | |||||
2003-04 | アル・ワスル | 13 | – | |||||||
2004-05 | 7 | – | ||||||||
2005-06 | → アル・アハリ・ドバイ (ローン) | 20 | 11 | – | ||||||
2006-07 | アル・ナスル | 15 | 3 | 1 | – | 4 | ||||
アル・アハリ・ドバイ | 5 | 1 | 0 | – | 1 | |||||
イラン | リーグ | ハズフィー・カップ | ACL | 合計 | ||||||
2007-08 | エステグラル | イラン・プロリーグ | 22 | 7 | 6 | 2 | – | 28 | 9 | |
2008-09 | 23 | 3 | 2 | 1 | 5 | 0 | 30 | 4 | ||
2009-10 | 30 | 10 | 1 | 1 | 7 | 5 | 38 | 16 | ||
2010-11 | 26 | 10 | 2 | 1 | 6 | 5 | 34 | 16 | ||
2011-12 | 16 | 9 | 2 | 0 | 0 | 0 | 18 | 9 | ||
カタール | リーグ | アミールカップ | ACL | 合計 | ||||||
2011-12 | アル・ガラファSC | カタール・スターズリーグ | 15 | 6 | 3 | 1 | 4 | 0 | 22 | 7 |
イラン | リーグ | ハズフィー・カップ | ACL | 合計 | ||||||
2012-13 | エステグラル | イラン・プロリーグ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
合計 | イラン | 165 | 58 | 17 | 9 | |||||
合計 | オーストリア | 12 | 2 | |||||||
合計 | UAE | 54 | 4 | 1 | ||||||
合計 | カタール | 15 | 6 | 3 | 1 | 4 | 0 | 22 | 7 | |
総合計 | 120 | 25 | 10 |
シーズン | クラブ | アシスト数 |
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07/08 | エステグラル | 2 |
08/09 | エステグラル | 3 |
09/10 | エステグラル | 2 |
10/11 | エステグラル | 5 |
11/12 | エステグラル | 8 |
11/12 | アル・ガラファSC | 5 |
12/13 | エステグラル | 0 |
マジーディーは1996年12月に開催されたAFCアジアカップ1996のサッカーサウジアラビア代表戦で代表デビューを果たした。彼は当時の代表監督であったブランコ・イヴァンコヴィッチの下ではアリ・ダエイやアーラシュ・ボルハーニーの控え選手としてベンチを温める事が多く、AFCアジアカップ2004を直前に控えた2004年の代表合宿では代表招集を辞退した。その後再び招集されるようになり、2007年時点で41試合に出場、10得点を決めた。AFCアジアカップ2007前の合宿ではアミール・ガレエノーイーの下で、AFCアジアカップ2011前の合宿ではアフシン・ゴトビの下で招集された。2011年8月23日にはカルロス・ケイロス新監督のもと再び代表に招集された。マジーディーは1996年から2011年まで16年間に渡りイラン代表で活躍し最も招集歴の長い選手だったが、実際に出場した試合数は多くなかった。ファルハード・マジーディーとペルセポリスFCの主将であったアリー・キャリーミーは2014 FIFAワールドカップ・アジア予選においてイラン代表サポーターの人気を二分する選手と考えられている。2011年9月27日、マジーディーはイラン代表からの引退を表明した[7]。
2010年、IFFHSより世界の現役サッカー選手の中で最も人気のある選手に認定された[8]。
タイトル | ||
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先代 アリーレザー・マンスーリーアーン |
エステグラルFC主将 2008–2013 |
次代 メフディー・ラフマティー |