Phil Villapiano | |||||
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基本情報 | |||||
ポジション | ラインバッカー | ||||
生年月日 | 1949年2月26日(75歳) | ||||
出身地 |
アメリカ合衆国 ニュージャージー州ロングブランチ | ||||
身長: | 6' 2" =約188cm | ||||
体重: | 225 lb =約102.1kg | ||||
経歴 | |||||
大学 | ボーリング・グリーン州立大学 | ||||
NFLドラフト | 1971年 / 2巡目全体45位 | ||||
初出場年 | 1971年 | ||||
初出場チーム | オークランド・レイダース | ||||
所属歴 | |||||
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受賞歴・記録 | |||||
スーパーボウル制覇(1回) | |||||
第11回スーパーボウル | |||||
プロボウル選出(4回) | |||||
1973年-1976年 | |||||
NFL 通算成績 | |||||
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Player stats at PFR |
フィル・ビラピアーノ(Phil Villapiano 、本名:Philip James Villapiano 、1949年2月26日 - )はニュージャージー州ロングブランチ出身[1]の元アメリカンフットボール選手。ポジションはラインバッカー。
高校時代はランニングバックとラインバッカーとしてプレーした[1]。1966年の秋に多くの大学からスカウトの声がかかりアトランティック・コースト・カンファレンスのメリーランド大学からも声がかかったがルー・セイバンヘッドコーチがAFLのデンバー・ブロンコスに就任することが決まり、後任のヘッドコーチが決まっていなかったため、ボーリング・グリーン州立大学に進学し、大学では5人のディフェンシブラインマンのエンドとして4年間プレーした[1]。シニアボウルでラインバッカーとしてプレーした。彼はラインバッカーとしても軽量の部類だったが40ヤードを4秒6で走るスピードを持つ敏捷さなどでNFLの数チームから注目される存在となった[1]。
1971年のNFLドラフトではチップ・オリバーの代わりとなるラインバッカーを求めていたオークランド・レイダースに指名されて入団した[1]。CFLのトロント・アルゴノーツのヘッドコーチ、レオ・ケイヒルから熱心に誘われていた彼はNFLドラフトで3巡目までに指名されなかった場合はCFL入りする決心だった[1]。
1972年、自己ベストの3インターセプトをあげて、プロキャリア唯一のリターンTDをあげた[2]。チームは地区優勝を果たしプレーオフでピッツバーグ・スティーラーズと対戦した。試合終了間際に第4ダウンでテリー・ブラッドショーからジョン・フッカに投げられたパスはジャック・テイタムの激しいヒットで大きく跳ね返りフランコ・ハリスがこれをキャッチ、タッチダウンに結びつけた。このプレーでビラピアーノはハリスにタックルしようとしたところ、相手タイトエンドのジョン・マクマキンに後ろからクリッピングの反則を受けた[3]が反則のコールがなされず残念であったとNFLフィルムズのビデオで述べている[4]。
1973年から1976年まで4年連続でプロボウルに選出された。1974年にチームは12勝2敗でシーズンを終え、プレーオフでスーパーボウル3連覇を目指したマイアミ・ドルフィンズを破ったがスティーラーズに敗れた。1975年もプレーオフでスティーラーズに敗れシーズンを終えた。
1976年、チームは13勝1敗でシーズンを終え、プレーオフでニューイングランド・ペイトリオッツに僅差で勝利しAFCチャンピオンシップゲームでスティーラーズを破り第11回スーパーボウル出場を果たした。この試合序盤にレイ・ガイのパントがミネソタ・バイキングスにブロックされ自陣3ヤード地点でのゴール前ディフェンスを迎えた。ここで彼は相手ボールをはたき落としファンブルさせた[1]。またプロフットボール殿堂入りするフラン・ターケントンをサックしている[2]。この試合をレイダースは32-14で勝利し初優勝した。
1977年は故障のため2試合の出場にとどまった。1978年、故障から復帰し右アウトサイドラインバッカーでプレーした[2]。
1980年のシーズン開幕前にボブ・チャンドラーとのトレードでバッファロー・ビルズに移籍した[1]。彼の加入したビルズはジョー・ファーガソンとジョー・クリブスらの活躍で11勝5敗でプレーオフに進出した。サンディエゴ・チャージャーズとの試合では第3Qまでリードしていたがダン・ファウツの活躍でチームは逆転負けした[1]。1981年もチームはプレーオフに進出したがシンシナティ・ベンガルズに敗れ、ストライキが起きた1982年のシーズンには4勝5敗、彼のキャリア最後の年となった1983年は8勝8敗でシーズンを終えた[1]。ビルズでは怪我のため4シーズンで13試合の出場にとどまった[2]。
同時代のラインバッカーとしては小柄だったがスピードとハードなプレースタイルでビッグプレーを行いレイダースの強力ディフェンスを支えた[1]。