1848年にアメリカ合衆国に移住し[2] 、1952年にはボストンの絵入り週刊誌「Gleason's Pictorial」の出版社で働き、図版の分割と分業制作による図版制作の納期短縮のシステムを作り上げた[3]。1853年にニューヨークに移り[3]、見世物の興行師のP・T・バーナムが創刊し、短命に終わった絵入り雑誌の挿絵を描いた。その雑誌が廃刊になった後、はじめて自らの雑誌「Frank Leslie's Ladies' Gazette of Fashion and Fancy Needlework」を創刊し、レスリー自身とウィリアム・ハーコート・フーパー(William Harcourt Hooper: 1834–1912)の木版画を掲載したが、フーパーとの協力は1854年には絶たれた[4] 。「 New York Journal」を続けて創刊し、1855年に「Frank Leslie's Illustrated Newspaper」に創刊し、「 Boy's and Girl's Weekly」や「 Budget of Fun」を創刊した。「Frank Leslie's Illustrated Newspaper」はニュースや小説も掲載し、1922年まで刊行を続けた[5]
。1861年から1865年まで続いた南北戦争中にレスリーやレスリーのスタッフが制作した、戦場の場面を描いたイラストレーションは歴史的な価値の高いものになった。1867年のパリ万国博覧会では役員を務めた。
婦人雑誌の編集者が病気になった時代役となった文筆家 ミリアム・フォライン・スキアー(Miriam Folline Squier: 1836-1914)という既婚の女性と親しくなり、1873年にミリアムは前の夫と離婚し、1874年ころレスリーはミリアムと2度目の結婚をした[6]。レスリー夫妻はニューヨーク州サラトガスプリングスの夏の別荘で、多くの著名人をもてなした。1877年に、多くの友人とともにニューヨークからサンフランシスコまでの贅沢な列車旅行を行い、ミリアムはこの旅行の旅行記『ゴッサムからゴールデンゲートまで(From Gotham to the Golden Gate)』(1877)を執筆した[7] 。贅沢な暮らしと不況により、レスリーは多額の負債を抱えることになった。
This article incorporates text from a publication now in the public domain: Gilman, D. C.; Peck, H. T.; Colby, F. M., eds. (1905). "Leslie, Frank" . New International Encyclopedia (1st ed.). New York: Dodd, Mead.
Frank Leslie at Find a Grave
Mrs. Frank Leslie, page 459 in: A woman of the century; fourteen hundred-seventy biographical sketches accompanied by portraits of leading American women in all walks of life. Editors: Frances Elizabeth Willard, Mary Ashton Rice Livermore Publisher: Moulton, Buffalo, N.Y., 1893