フリードリヒ・ヴァインブレンナー(Friedrich Weinbrenner、1766年-1826年)ドイツ人の建築家、都市プランナー。古典主義の建築家として知られ、 自身の手がけた建築の古典主義様式は、ヴァインブレンナー様式とも呼ばれる。 また計画都市カールスルーエの都市建設に貢献した人物。 甥には、1832年にオーブリヒハイムの聖ラウレンティウス教会をてがけた、ヨハン・ルートヴィヒ・ヴァインブレンナーがいる。
大工であった父に弟子入りし仕事を開始。 1788年から、チューリッヒとローザンヌで建築家として経験を積む。1790年にウィーンに渡り、建築学をほとんど独学で学び始める。1790年から1791年に、ウィーンとドレスデンの建築アカデミーで学ぶ。1791年から1792年、ベルリンでパッラーディオ主義の建築に触れ、カール・ゴッタルド・ラングハンス (1732-1808)、デビッド・ギリー (1748-1808)とハンス・クリスチャン・ジェネリ(1763年-1823年)らから建築思想に影響を受けている。 1792年から1797年までイタリアで過ごし、ローマに滞在していたカールルートヴィヒ・フェルノウ(1763年-1808年)のサークルで交流。ローマ、ポンペイ、ヘルクラネウムなどの古代建築の研究にいそしみ、特に、パエストゥムの建築に影響を受ける。
イタリアから帰後、短期でストラスブールとハノーファーなどで働いたが、かつての首都のバーデン公国グランド君主国から中央ドイツ主権国家として1715年に新しく創設された首都カールスルーエに、地位を築くため、カールスルーエ政府に建築設計の職を希望する。こうして、アウクスブルク市庁舎やマルクト広場と辺境伯カール・ヴィルヘルムが眠るピラミッド(Marktplatz mit Pyramide、教会の代わりであった)などを造営し、その後自身が1797年策定に関わった市の都市計画マスタープランで始まる凱旋路(1821年から1825年)など、カールスルーエの街や主だった施設を建設するための責任者になる。 またこのときから後進建築家の指導や古典作品に関する執筆出版、建築スタイルではヴァインブレンナー様式(バーデン古典主義様式)を開発した。1825年には次世代建築家を育成するため、カールスルーエで職業訓練学校の設立にも尽力した。
ヴァインブレンナーの建物のほとんどは、第二次世界大戦で破壊され、現在見られるのは1950年に再建されたものである。
以下はすべて、カールスルーエでのもの。