พระนารายณ์ราชนิเวศน์ Phra Narai Ratchaniwet | |
敷地内の東側北部の中庭 | |
所在地 |
タイ、ロッブリー県 ムアンロッブリー郡 |
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地域 | タイ中部 |
座標 | 北緯14度48分00秒 東経100度36分36秒 / 北緯14.800度 東経100.610度 |
種類 | 宮殿 |
全長 | 280m |
幅 | 200m |
面積 | 65,600m2 |
歴史 | |
建設者 | ナーラーイ |
資材 | ラテライト、煉瓦 |
完成 | 17世紀(1677年)以降 |
建築物 | |
建築様式 | フランス様式・タイ様式など混交 |
プラ・ナーラーイ・ラチャニウェート(Phra Narai Ratchaniwet、タイ語: พระนารายณ์ราชนิเวศน์、王ナーラーイの宮殿)は、タイの中部、ロッブリーにある王ナーラーイにより構築された宮殿の跡である。
プラ・ナーラーイ・ラチャニウェートは、ロッブリー県の県庁所在地(ムアン)ロッブリーの市内西側[1]を流れるロッブリー川のほとりに位置する[2]。
17世紀、1656年から1688年にわたってアユタヤを支配した王ナーラーイは、1665年に[3]王ラーメースワン(在位1369-1370年・1388-1395年)の宮殿と同じ地域に建造を命じた。12年後の1677年に宮殿が完成すると[2][4]、王ナーラーイは、雨季を除いて[5]1年のうち約8か月間はここに居留した[6]。王はロッブリーをアユタヤ王朝の第2の都に定めた[2]。宮殿は、休養、狩猟、国務の執行、そして公的訪問者を迎える場所であった[5]。王ナーラーイの治世の終わりかけて、後の王ペートラーチャーとクン・ルワンソーンサック(その後の王スリエーンタラーティボーディー)が王位に就こうと高官や兵士とクーデターを計画した。王ナーラーイが1688年7月に死去すると[6]、ペートラーチャーがここで即位式を行ったが[4]、すぐにロッブリーとその宮殿は放棄された[1]。
19世紀になり、チャクリー王朝(ラッタナーコーシン王朝)の王ラーマ4世(モンクット、在位1851-1868年)は、王ナーラーイの宮殿の修復を命じた。王は1856年に自身の滞在のために新しい王宮複合施設(ピマーン・モンクット宮殿、Phiman Monkut Pavilion)を構築した[5]。王はまた、宮殿をプラ・ナーラーイ・ラチャニウェート (Phra Narai Rajanivet) に改名した。
ラーマ5世(チュラーロンコーン、在位1868-1910年)の統治中、王ラーマ4世の宿泊施設であったピマーン・モンクット宮殿は、ロッブリー市庁として使用するよう政府に与えられた。
1924年10月11日、王子ダムロンラーチャーヌパープと王子ナリッサラーヌワッティウォンは、王ナーラーイの宮殿にあるチャンタラ・ピサーン宮殿 (Chantarapisarn Pavilion) を博物館として開館し、「ロッブリー博物館」(“Lopburi Museum”)と呼ばれた。その後、1961年に博物館の名称は、現在の「ソムデット・プラ・ナーラーイ国立博物館」(“Somdet Phra Narai National Museum”)に変更された。
今日、宮殿は博物館として、宮殿内のそれぞれの分館(宮殿)や建物に1,864点以上の古代工芸品の所蔵物を展示している。
敷地はおよそ7ヘクタール(41ライ、65,600平方メートル〈1ライは1,600平方メートル〉)の方形であり、東西約280メートル、南北約200メートルの[1]高いラテライトの壁に囲まれる[4]。11か所に門があり、宮殿各部に通じている[2]。また、宮殿内は東側、西側ともに北と南の区域があり、4つの区域に分けられる[1]。それらの区域もまた高い壁に囲まれており、同様に門より入場することになる。
外側は敷地の東半分を占める場所であり、ほぼ同じ面積の南北2つの中庭に分かれている。
第1の中庭は、今日の中央入口である北側の東門より入場した場所にある。そこには宮殿のすべての建物に水を供給した貯水庫に加えて、保管庫として使用された12棟の煉瓦の建物(タイ語: หมู่ตึก 12 ท้องพระคลัง)が2列平行に配置される[3]。その中庭の西の壁側には、王室のゾウの飼育舎(タイ語: โรงช้างหลวง)があった。今日、10基がその厩舎の遺構として見られるが、おそらく小さな建物は象使いの住居であった[2]。
貯蔵庫群の南側にある第2の中庭には「使節を迎えるための建物」“Tuk Rap Rong Khaek Mueang”(タイ語: ตึกรับรองแขกเมือง)がある。建物はフランスの様式で構築され、水路に囲まれる3面に20の樋嘴(ガーゴイル)をもつ。その前方には賓客を楽しませるための舞台の基壇がある[2]。
第2中庭の南壁の位置に、プラ・チャオ・ハオの館(Phra Chao Hao Hall、タイ語: ตึกพระเจ้าเหา)がある。この建物は幅10メートル、長さ20メートルであり、タイ様式で構築されている。仏像がその中に安置されていたため[2]、おそらくフランスの来賓者らはそれを宮殿の寺院と捉えた。
内側の門より西に通じる。宮殿の敷地の西側に位置するこの区域は、高い壁により隔てられている。
西側の小さな中庭に、ドゥシット・サワン・ターニャ・マハープラサートの館 (Dusit Sawan Thanya Mahaprasat Hall、タイ語: พระที่นั่ง ดุสิตสวรรค์ ธัญญมหาปราสาท)の遺構があり、その建築様式にはフランス様式(ドーム型の窓[4])とタイ様式(方形の窓[4])の2つが認められる[2]。王ナーラーイはここに外国の使節を受け入れて謁見した[3]。使節らは正面に寄ることを許されたが、王は高く設けられ窓から客を迎えた。その王の窓の下にある銅板の描画は[2]、王ナーラーイをキリスト教に改宗するため1685年にタイを訪れたフランス大使アレクサンドル・ド・ショーモン(シュバリエ・ド・ショーモン)の謁見を想起させる。
ドゥシット・サワン・ターニャ・マハープラサートの北に、王ラーマ4世(モンクット)が、ロッブリーを訪れた際に滞在するヨーロッパ様式のピマーン・モンクット宮殿 (Phiman Mongkut Hall、タイ語: หมู่พระที่นั่งพิมานมงกุฎ) が構築されている。
ピマーン・モンクット宮殿の北隣には、チャンタラ・ピサーン宮殿 (Chanatara Phisarn Throne Hall、タイ語: พระที่นั่งจันทรพิศาล) がある。王ナーラーイにより建てられたもので[3]、タイ寺院を模して建造されている。おそらくそれは王ラーメースワンが、ロッブリーにラーマーティボーディー1世(ウートーン、在位1351-1369年)の副王(ウッパラート、Uparat)として住んでいた宮殿に属する古い構築物の土台に建てられた。スッタ・サワン宮殿が完成すると、ここは王ナーラーイが相談役を寄せる場となった[2]。後にチャンタラ・ピサーン宮殿は王ラーマ4世により修復された[4]。
南側にある広い中庭には、王ナーラーイ自身の住居であったスッタ・サワン宮殿(Suttha Sawan Throne Hall、タイ語: พระที่นั่งสุทธาสวรรค์)の遺構がある[3]。ここで王は1688年7月[6]11日、長い病の後に死去した。
西側北中央に位置するピマーン・モンクット宮殿は、現在、ロッブリー地方およびその他の地域からの先史時代の遺物やロッブリー美術時代の作品などのほか、最上階の3階には王ラーマ4世の所有する物品が展示されている[3]。当初、王が居住したチャンタラ・ピサーン宮殿では、王ナーラーイの宮廷内の生活がうかがえる展示物がある[3]。また、西側区域のこれら2棟の建物の後方には、貴重な陶器や磁器を展示したやや小さい博物館がある。