ヘリット・ルンデンス Gerrit Lundens | |
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![]() ヘリット・ルンデンス作「旅籠の庭でクロッケーを楽しむ人々』(1670) | |
生誕 |
1622年9月27日(洗礼日) アムステルダム |
死没 |
1686年7月11日(埋葬日) アムステルダム |
ヘリット・ルンデンス(Gerrit Lundens、1622年9月27日(洗礼日)- 1686年7月11日(埋葬日)は、オランダの画家である。風俗画や肖像画を描いた[1] 。著名な画家の模写作品も残した。
アムステルダムで布の漂白の仕事の職人の息子に生まれた。母方の祖父はクリストフェル・ファン・ジーヘン1世(Christoffel van Sichem: 1546-1626)という版画家であった[2] 。家族はもともとはアントウェルペンに住んでいたが、ミデルブルフに移った後、1590年ころアムステルダムに移ってきていた[3]。父方の叔母は1620年にクリストフェル・ファン・ジーヘン2世(Christoffel van Sichem: 1581–1658)と結婚した。
ルンデンスが13歳の時、姉が画家のアブラハム・ファン・デン・ヘッケン(Abraham van den Hecken: c.1615-1655)と結婚し、ルンデンスは義理の兄から絵を学んだと考えられていて、ルンデンスの初期の作品はファン・デン・ヘッケンの作品とスタイルが近いとされる[4]。1643年4月に結婚しアムステルダムの近郊に住んだ。
1667年にアムステルダムのの市民となり、宿屋の主人やワイン商人としても働いたが[3]、ワイン商人の仕事は1671年には行き詰った。画家としての仕事は1675年ころまで続けたが、フランスのオランダ侵攻(仏蘭戦争)がもたらした不景気のため絵を描くのを止めたと考えられている[5]。1686年にアムステルダムで亡くなった。
150点ほどの絵画を残し、居酒屋で楽しむ人々を描いた風俗画などが多い。床屋医師の治療を受ける患者を描いた作品や1652年のアムステルダム旧市庁舎の火災を描いた作品もある。肖像画も描いた。
フランドルの有名な風俗画家のアドリアーン・ブラウエル(1605-1638)らの模写作品を制作したことで知られ[6]、有名なレンブラント・ファン・レイン(1606-1669)の作品『夜警』の模写はオリジナルが描かれて数年後に、描かれた人物の一人に依頼されて小さいサイズの模写作品(66.5cm×85.5cm、オリジナルの1/5ほどのサイズ )を制作した。オリジナル作品は1715年に展示場所の都合で幅、高さが切り詰められたのでルンデンスの模写が、制作時の作品の姿を伝えることになった。この作品はロンドンのナショナル・ギャラリーに収蔵されている[7]。