第6代サフォーク伯爵ヘンリー・ハワード(英語: Henry Howard, 6th Earl of Suffolk PC、1670年 – 1718年9月19日)は、イングランド貴族。1691年から1706年までウォールデン卿の儀礼称号を使用した。
第5代サフォーク伯爵ヘンリー・ハワードと1人目の妻メアリー・ステュアートの長男として[1]、ロンドンで生まれた[2]。1685年11月2日にケンブリッジ大学モードリン・カレッジに入学した[2]。
1694年にアランデル選挙区の補欠選挙で当選したが、選挙申立てにより2月22日に当選無効が宣言された[3]。その後、1695年から1698年までアランデル選挙区の、1705年から1706年までエセックス選挙区の庶民院議員を務めた[2]。
軍務伯は代々ノーフォーク公爵が務めたが、1706年時点の軍務伯第8代ノーフォーク公爵トマス・ハワードはカトリックだったため[3]、慣例として副軍務伯にプロテスタントを任命することとなった。ヘンリー・ハワードの父にあたる第5代サフォーク伯爵ヘンリー・ハワードが副軍務伯の候補となったが、彼はすでに80歳近くと老齢だったため、代わりにその長男であるヘンリー・ハワードが任命された[3]。任命にあたって、1706年12月30日にビンドン伯爵およびチェスターフォード男爵に叙された[3]。1709年12月10日に父が死去するとサフォーク伯爵の爵位を継承した[1]。また、1708年6月26日に枢密顧問官に任命され[3]、1714年から1718年までエセックス統監を[2]、1715年から1718年まで商務委員会第一卿を務めた[3]。
1718年9月19日にガンナーズベリーで死去[3]、一人息子チャールズが爵位を継承した[1]。
1691年8月6日、オーベリー・アン・ペネロープ・オブライエン(Auberie Anne Penelope O'Brien、1703年12月2日没、第7代ソーモンド伯爵ヘンリー・オブライエンの四女)と結婚、1男をもうけた[1]。
1705年4月、ヘンリエッタ・サマセット(1715年8月2日没、初代ボーフォート公爵ヘンリー・サマセットの娘)と再婚したが、2人の間に子供はいなかった[1]。
イングランド議会 (en) | ||
---|---|---|
先代 ウィリアム・モーリー ジェームズ・バトラー |
庶民院議員(アランデル選挙区選出) 1694年 同職:ジェームズ・バトラー |
次代 ジェームズ・バトラー ジョン・クック |
先代 ジェームズ・バトラー ジョン・クック |
庶民院議員(アランデル選挙区選出) 1695年 – 1698年 同職:エドマンド・ダマー |
次代 ジョン・クック クリストファー・ナイト |
先代 サー・チャールズ・バリントン準男爵 フランシス・マシャム |
庶民院議員(エセックス選挙区選出) 1705年 – 1706年 同職:フランシス・マシャム |
次代 フランシス・マシャム トマス・ミドルトン |
公職 | ||
先代 カーライル伯爵 |
副軍務伯 1706年 – 1718年 |
次代 バークシャー伯爵 |
先代 ストラットンのバークリー男爵 |
商務委員会第一卿 1715年 – 1718年 |
次代 ホルダーネス伯爵 |
名誉職 | ||
先代 ボリングブルック子爵 |
エセックス統監 1714年 – 1718年 |
次代 サフォーク伯爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 ヘンリー・ハワード |
サフォーク伯爵 1709年 – 1718年 |
次代 チャールズ・ハワード |
新設 | ビンドン伯爵 1706年 – 1718年 |