ベネディクト・コンスタンチノヴィチ・リフシッツ(ロシア語: Бенеди́кт Константи́нович Ли́вшиц、1887年1月6日‐1938年9月21日)は、ロシアの詩人、翻訳家である。
1887年1月6日(ユリウス暦1886年12月25日)、オデッサの裕福なユダヤ系商人の家に生まれる。学生運動への参加が原因でノヴォロシア大学を退学になったあと、聖ウラジーミル大学の法学部に移り1912年に同大学を卒業した。卒業後はペトロフスキー歩兵第88連隊で志願兵として軍役に従事した。
1910年、ペテルブルクで刊行されていたアクメイズムの雑誌「アポロン」に三篇の詩が掲載される。1911年の12月にダヴィド・ブルリュークと知り合い、彼とその弟たちと共に、後に未来派の中心的グループとなるギレヤを結成。1914年、ペテルブルクにマリネッティが訪問した際には、フレーブニコフとともに挑戦的なビラを撒いた。同年、画家ゲオルギー・ヤクーロフ、作曲家アルトゥール・ルリエーとともに未来派のマニフェスト「我々と西欧」を発表。さらに第一次世界大戦勃発を受けて徴兵され、聖ゲオルギー勲章を受賞。
1933年、回想記『一個半眼の射手』を発表。 翻訳家としては、フランス象徴主義詩、およびグルジア詩の翻訳に従事した。
大粛清の最中の1937年に逮捕、投獄され、翌年に「右翼トロツキスト」「人民の敵」の罪状により死刑となる。家族には、「通信の権利のない10年の懲役刑」という虚偽の通達がなされた。スターリン死後の1957年10月24日に名誉回復された。