ペロ・アグアヨ | |
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プロフィール | |
リングネーム | ペロ・アグアヨ |
本名 | ペドロ・アグアヨ・ダミアン |
ニックネーム | 山犬 |
身長 | 176cm |
体重 | 95kg(全盛時) |
誕生日 | 1946年1月18日 |
死亡日 | 2019年7月3日(73歳没)[1] |
出身地 |
メキシコ サカテカス州ノチストラン・デ・メヒア |
トレーナー |
アポロ・ロマノ ディアブロ・ベラスコ |
デビュー | 1970年5月10日 |
引退 | 2001年 |
ペロ・アグアヨ(Perro Aguayo、本名:Pedro Aguayo Damián、1946年1月18日 - 2019年7月3日[1])は、メキシコのプロレスラー。サカテカス州ノチストラン・デ・メヒア出身。
リングネームの "Perro" とは「犬」を意味し、日本では『山犬』の異名で呼ばれた[2]。ルチャリブレでは異色のラフファイターであり、主に素顔のルードとして活躍した[2]。
来日するまでは、ペーロ・アグアイヨの表記で紹介されていた。実子のペロ・アグアヨ・ジュニア(エル・イホ・デ・ペロ・アグアヨ)もプロレスラー。
少年時代から喧嘩に明け暮れ、レスリングではメキシコで4度のチャンピオンになっている[2]。ディアブロ・ベラスコのジムで修行を積み、1970年5月にプロレスラーとしてデビュー。1975年7月、トーナメントの決勝でリンゴ・メンドーサを破りNWA世界ミドル級王座を獲得[3]。
1978年にLLIへ移籍後、1979年2月開幕の新日本プロレス『ビッグ・ファイト・シリーズ』に初来日。シリーズ最終戦の4月5日、東京都体育館大会のセミファイナルにおいて、藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦した[4]。同年4月にメキシコシティでUWA世界ジュニアライトヘビー級王座、1980年5月にナウカルパンでUWA世界ライトヘビー級王座を、それぞれグラン浜田から奪取している[5][6]。
日本では新日本プロレスの常連外国人選手として活躍し、1981年3月にはWWFライトヘビー級王座決定リーグ戦の決勝で浜田を破り、同王座の初代チャンピオンとなった[7]。1982年2月に新日本勢がメキシコに遠征した際は、LLIの本拠地エル・トレオにてアブドーラ・ザ・ブッチャーのパートナーを務め、アントニオ猪木&藤波の師弟コンビと対戦している[8]。同年11月開幕の『第3回MSGタッグ・リーグ戦』にはカネックとのメキシコ代表コンビで出場。アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、ディック・マードック、マスクド・スーパースター、キラー・カーンなど、遥かに体格差のあるスーパーヘビー級の大型選手とタッグマッチで対戦した[9]。
1982年12月12日にはエル・トレオにおいて、メキシコに遠征してきたタイガーマスクのWWFジュニアヘビー級王座に3本勝負で挑戦。日本国内ではピンフォール負けを喫したことのなかったタイガーから、得意技のセントーンで1フォールを奪っている(2本目にトペ・スイシーダをかわされて膝を負傷、そのままドクターストップがかかってTKO負けとなったが、タイガーにはフォールを取られなかった)[10]。
カルロス・コロンが主宰するプエルトリコのWWCにも遠征しており、1983年1月にジェリー・ブリスコからWWC世界ジュニアヘビー級王座を奪取[11]。その後、日本へは1984年4月にUWFの旗揚げシリーズに参戦[12]、1985年1月には全日本プロレスに来日している[13]。本国メキシコでは1988年3月4日にカネックを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得[14]、UWA3階級制覇を果たした。
1991年、EMLLに移籍してシエン・カラスと抗争[2]。1992年5月15日にはAAAの旗揚げにリンピオとして参加[2]。以降もAAAのエースとなって活躍し、1994年11月6日にコナンからIWC世界ヘビー級王座を奪取した[15]。
2000年3月から引退ツアーを行い、新日本プロレスにもアグアヨ・ジュニアと共に来日[16]。翌2001年に引退した。