ポール・エルスタック | |
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出生名 | Paul Roger Elstak |
別名 |
DJ Paul Elstak DJ Paul |
生誕 | 1966年1月14日 |
出身地 |
![]() |
ジャンル |
テクノ ハウス |
職業 |
プロデューサー DJ |
活動期間 | 1990年から |
レーベル |
Offensive Records ロッテルダムレコードなど |
公式サイト | オフィシャルサイト |
DJポールこと、ポール・エルスタック(1966年1月14日 - )は、ハードコアテクノのプロデューサー、およびDJである。出身はオランダのハーグ。本名はポール・ロジャース・エルスタック(Paul Roger Elstak)
ハッピーハードコアをリリースする場合には『DJポール・エルスタック』として、ガバをリリースする場合には『DJポール』などと、それぞれ名義を使い分けている。 後年、Offensive Records[1]を設立した後は、フルネームでもクレジットを入れるようになった。
ジャズ・ミュージシャンであった祖父のNedley Elstakが、1936年にインドネシアのジャワからオランダへ移住してきた。オランダにおけるエルスタック家の音楽活動は、ここが事実上のスタートであった。更に、ポールの父親もロック歌手のバックバンドをしており、ポールは小さい頃から音楽に囲まれた環境で育つ事ができた。
1982年からクラブでDJを始めるようになり、マクドナルドのアルバイトをして稼いだお金でレコードを買っていた。当時は主にヒップホップの曲をプレイしていた。DJによる活動を行って行く中、1987年にはロッテルダムのディスコ「Blue Tiek」のメインDJとして選出されるようになる、ポールは次第に地元の有名DJとなっていった。
1990年には、Peter SlaghuisとのユニットTimedrillersでレコードをリリースした。更にPeter Slaghuisとは、ホリー・ノイズとしても活動を行う事となり、"James Brown Is Still Alive!!"などのヒットを出す事となる。この時期からは、オランダのハウスアーティストとして海外にも有名となっていく。
1992年には、Midtown Recordsの傘下としてレコードレーベルのロッテルダムレコードを立ち上げ、そこからハードコアテクノを中心とした数々のレコードをリリースするようになる。1993年には電気グルーヴのアルバム『Flash PaPa MENTHOL』のカフェ・ド・鬼 (かなりおもしろい顔MIX)をプロデュースしたことでテクノに慣れていなかった日本のファンにも名前が知られるようになっていった。1995年からは次第にハッピーハードコアの色合いが濃くなり、リリースした曲がオランダの音楽チャートで上位に入るようになる。
2002年には、ロッテルダムレコードの運営を離れてOffensive Recordsを設立し、以後はそちらでのリリースがメイン活動となっていく。現在では、最盛期にリリースの多かったハッピーハードコアはもう作成しておらず、それよりパワフルな路線でのハードコアテクノを作成・リリースしている。
2024年にはユーロビジョン・ソング・コンテスト2024のオランダ代表曲『Europapa』の製作に加わった[2]。
下記の通り、過去から現在において所属したユニットは多岐に渡る。更に、オランダのハードコアの中心的存在だったロッテルダムレコードのオーナーだった事もあり、最盛期においては「ガバのボス」「ロッテルダムのドン」などと形容された事もある。