マイク・マイニエリ Mike Mainieri | |
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マイク・マイニエリ(2016年) | |
基本情報 | |
出生名 | Michael T. Mainieri Jr. |
生誕 | 1938年7月4日(86歳)[1] |
出身地 | アメリカ合衆国 ニューヨーク |
ジャンル | ジャズ、フュージョン、ロック |
職業 | ミュージシャン、作曲家、レーベル・オーナー |
担当楽器 | ヴィブラフォン、キーボード |
活動期間 | 1952年 - |
レーベル |
アーゴ ソリッド・ステイト アリスタ ワーナー・ブラザース・レコード エレクトラ NYCレコード |
共同作業者 | バディ・リッチ、ステップス・アヘッド |
公式サイト | http://www.nycrecords.com/ |
マイク・マイニエリ(Mike Mainieri、1938年7月4日[1] - )は、ジャズ・フュージョンのヴィブラフォン奏者。ニューヨークのブロンクス出身。NYCレコードの設立者でもある。
ジャズではゲイリー・バートンが広めたバートン・グリップが主流であるが、ジャズ界では少ないムッサー・グリップの奏者であり、ムッサー・グリップの音量が出ないという弱点をエレクトリック・アタッチメントの併用で克服したシンセ・ヴァイブの第一人者でもある。代表作にアルバム『ラヴ・プレイ』(1977年、Arista)など。
1938年7月4日にニューヨークに生まれる[1]。12歳からヴィブラフォンを学び、14歳でプロ・デビューしている。バディ・リッチのオーケストラに参加し、知名度を得た。1961年度の『ダウン・ビート』誌の批評家投票でヴィブラフォン部門の新人賞に選ばれる。同年、長期に及ぶ国務省派遣ツアーに参加するが外地で病に伏し演奏活動の中断を余儀なくされる。このブランクの後に1962年録音の初リーダー作『ブルース・オン・ジ・アザー・サイド』を発表。この作品は長らく廃盤であったが1999年に復刻リリースされている。キャリアのほとんどでニューヨークを中心に活動しており、1970年代始めにはブレッカー兄弟やスティーヴ・ガッドらとともにニューヨーク派フュージョンの先駆的グループ「ホワイト・エレファント」を主宰していた。このグループは流動的にメンバーが入れ替わるセッション的な活動を行なっていたため、その活動はほとんど知られることがなく、1972年にアルバム1枚を発表して解散した。1977年に発表したリーダー作『ラヴ・プレイ』にはデイヴィッド・サンボーンやマイケル・ブレッカー、スティーヴ・ガッド、デヴィッド・スピノザ、ウィル・リーらの名手が参加しているが、発売当時は話題にはあがらなかった。
日本で知名度を得るきっかけとなったのは1978年にピアニスト/キーボーディストの深町純が中心となり結成された「ニューヨーク・オールスターズ」の日本ツアーにて、マイニエリの曲「ラヴ・プレイ」がフィーチャーされ、人気を集めたことである(『深町純&ニューヨーク・オールスターズ/ライヴ』収録)。これにより自己のアルバム『ラヴ・プレイ』も注目を浴び、1970年代後半のフュージョンを代表する一枚となる。
翌年にマイケル・ブレッカー、ドン・グロルニック、エディ・ゴメス、スティーヴ・ガッドと「ステップス」を結成し、日本のフュージョン界で活躍するギタリスト渡辺香津美をゲストに迎えたツアーで大評判を得る。またこのツアーが縁で1980年に、渡辺香津美の代表作のひとつとなる『TO CHI KA』をプロデュースしている。
ステップスは1983年にエレクトラ・レコードと契約し大きく進出しようとするが、既に同名のグループが存在していたため、「ステップス・アヘッド」と改名する。初期はアコースティック・ジャズをメインとしていたが、徐々にエレクトリック・ジャズ(フュージョン)へとシフトしていく。
1992年には自己レーベルNYCレコードを設立する。
2004年夏、日本で開催されたマウント・フジ・ジャズ・フェスティバルへ出演するため限定的に「ステップス・アヘッド」を再結成。あまりにも好評であったので、その後も世界ツアーを行った。2007年現在、僚友マイケル・ブレッカーを病で失いつつも、若干のメンバー変更を行いながらライブ活動を継続している。近年は、ソロ活動は少ないもののデイヴィッド・サンボーンの「クローサー」へゲストで出演。