マイク・マーテル | |
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プロフィール | |
リングネーム |
マイク・マーテル ミシェル・マーテル マッドドッグ・マーテル ザ・ランバージャック |
本名 |
ミシェル・ヴィニョー (マイケル・ヴィノー) |
身長 | 178cm - 182cm |
体重 | 110kg - 115kg |
誕生日 | 1944年10月 |
死亡日 | 1978年6月30日(満33歳没) |
出身地 |
![]() ![]() ケベック・シティー |
デビュー | 1968年 |
"マッドドッグ" マイク・マーテル("Mad Dog" Michel Martel、本名:Michel Vigneault、1944年10月 - 1978年6月30日)は、カナダのプロレスラー。ケベック州ケベック・シティー出身のフランス系カナダ人。
元AWA世界ヘビー級王者リック・マーテルの実兄。カナダ各地やプエルトリコを主戦場に、ピエール・マーチンとのタッグチームなどで活動した。
1968年にカナダのオンタリオ地区でデビュー後、カルガリーのスタンピード・レスリングにてダニー・バビッチとのタッグチームで活動。1971年から1973年にかけて、ジョージ・ゴーディエンコ&スーパー・ホークなどのチームを破り、カルガリー版のインターナショナル・タッグ王座を再三獲得した[1]。
1970年代中盤、同じケベック人であるピエール・マーチンとのフランス傭兵ギミックのタッグチーム、ザ・マーセナリーズ(The Mercenaries)を結成。1975年11月には、ザ・コンバット(The Combat)のチーム名でマーチンと共に国際プロレス『ビッグ・ウインター・シリーズ』に初来日[2]。11月3日の後楽園ホールでの開幕戦でグレート草津&マイティ井上からIWA世界タッグ王座を奪取し[3]、11月21日の水沢でのリターンマッチにも勝利して初防衛に成功[2]。12月2日の横浜文化体育館での金網タッグデスマッチによる再度のリターンマッチで草津&井上に奪還されたものの[4]、一時はタイトルの海外流出が危ぶまれた[5]。国際には翌1976年10月の『勇猛シリーズ』にもコンバットとして再来日、王座返り咲きを狙って11月14日の足利と翌15日の愛知県体育館において、草津&井上に2日連続で挑戦している(愛知県体育館大会は金網タッグデスマッチで開催)[4]。同シリーズには実弟のリック・マーテルも初来日していた[6]。
1977年は旧パートナーのダニー・バビッチ(ダニエル・マンテル)と組み、プエルトリコのWWCにてカルロス・コロン&ホセ・リベラなどのチームとタッグ王座を争った[7]。シングルでは1978年上期、古巣のカルガリーでレオ・バークから北米ヘビー級王座を奪取している[8]。
その後、再びマーチンとのコンビで活動していたが、1978年6月30日、プエルトリコのポンセでの試合でインベーダー1号ことホセ・ゴンザレスのパンチを心臓部に受け、試合後に心臓発作を起こし病院に搬送されたものの死去した[9]。33歳没。なお、ホセ・ゴンザレスは1988年にもブルーザー・ブロディ刺殺事件を起こしたが、正当防衛として無罪判決を受けている[10]。