マックス・ウェルティ Max Welti | |
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ウェルティ(2007年) | |
基本情報 | |
国籍 | スイス |
生年月日 | 1952年9月6日(72歳) |
出身地 | スイス チューリッヒ |
マックス・ウェルティ(Max Welti、1952年9月6日 - )は、スイス出身の元レーシングドライバーである。スイスのレーシングチームであるザウバーのチームマネージャーだったことでも知られる。
ウェルティはレーシングドライバーとしてのキャリアの後、同郷のペーター・ザウバーのレーシングチームであるザウバーで初代のチームマネージャーを務めた(1986年 - 1990年)。
ウェルティがチームマネージャーを務めていた当時のザウバーはスポーツカー世界選手権で活躍し、同選手権を2回に渡って制覇し、ル・マン24時間レースにおいても総合優勝を果たした。その後、ポルシェを経て、ザウバーに復帰し、1995年から1998年にかけて再び同チームのチームマネージャーを務めた。
ウェルティはスイス連邦工科大学ローザンヌ校とチューリッヒ工科大学で機械工学を学んだ。
1970年代後半にスイススポーツプロトタイプ選手権に3年間参戦し、1980年にマーチ・BMWで選手権を勝ち取った。
その後、1985年まではドライバーとしてザウバーで走った。
1985年限りでドライバーとしてのキャリアを終え、翌1986年からはザウバーで同チームとしては初のチームマネージャーを務めた。
ザウバーは1982年から独自に開発したグループCカーでスポーツカーの世界選手権に挑戦を始め、1985年からは非公式にメルセデス・ベンツエンジンの供給を受けるようになっていた。1986年も車両の性能不足から苦戦が続いていたが、同年8月のニュルブルクリンク1000㎞レースで、ザウバーは世界選手権における初優勝を記録した(ドライバーはマイク・サックウェルとアンリ・ペスカローロ)。
1988年からはメルセデス・ベンツ(ダイムラー・ベンツ)が自動車レースにおける活動を再開し、ザウバーへの関与も正式なものとし、ザウバーはメルセデス・ベンツのワークスチームとなった。
これにより戦闘力は向上し、ザウバー・メルセデスは1989年と1990年の選手権を圧倒するとともに、1989年にはル・マン24時間レースでも総合優勝を達成した(1990年は不参加)[W 1]。
ウェルティは1991年にポルシェからF1のプロジェクトマネージャーとして誘われたことで、それを引き受けて移籍した[W 2][W 3]。当時、ポルシェはF1チームのフットワーク(車両はフットワーク・FA12)へのエンジン供給を始めようとしていたところだったが、このプロジェクトは大きな失敗となる[W 4][W 2]。
ポルシェがF1から撤退した後もウェルティはモータースポーツ部門のマネージャーとして残り[W 2]、同部門の再構築も任されていたことから、当時のF1の実質的な運営者であるバーニー・エクレストンと交渉を重ね、1993年にポルシェ・スーパーカップの創設を実現した[W 5]。同年以降、ワンメイクのこの選手権はF1のサポートレースのひとつとして定着していくことになる。
ポルシェでもル・マン24時間レースにレースディレクターとして関わり、1994年のレースではプロジェクトリーダーであるノルベルト・ジンガーと組んで、ダウアー・962LMを擁してチームは総合優勝を果たした[W 1]。実際のチーム運営を担ったのはヨースト・レーシングだが、この勝利もウェルティの成果として数えられることとなる[W 1]。
ウェルティはポルシェにF1に復帰するよう説得を試みたが、それは達成できなかったことから、1995年5月にザウバーに復帰した[W 2]。ザウバーは1993年からF1に参戦しており、再びチームマネージャー(マネージングディレクター)に就任したウェルティはチームを監督する立場となる。同時に、ザウバーの上級副社長となったウェルティはレース運営全般の指揮も任され、これにより同チーム代表のペーター・ザウバーは資金調達やマーケティングなどの対スポンサーの対応に専念できる体制となった[W 2]。ザウバーではチーム内の政治的な争いに巻き込まれ、その結果、1998年1月にチームを去った[W 4][W 3](後任はビート・ツェンダー)。
2000年からウェルティは新たなツーリングカー選手権であるV8STARシリーズの最高経営責任者となり、同選手権の立ち上げから関与し、翌2001年には初年度の開催にこぎつけた。
この選手権はシルエットカー(外観だけ市販車に似せたボディを使用し中身はスペースフレームで作られたレース専用の車体)を用いたもので、1990年代半ばに消滅したDTM(旧DTM/ITC)と異なり、自動車メーカーに過度に依存しない選手権を目指していた[W 6]。しかし、2000年に新DTMが始まっていたこともあって、スポンサー集めに苦しんだ。結果として、同シリーズは長くは続かず、2003年に消滅した[W 6]。
2005年に自動車レースの国別選手権としてA1グランプリが始まり、ウェルティはA1チーム・スイスのオーナーとなって最初のシーズン(2005年 - 2006年)から参戦を始めた。
ニール・ジャニをメインドライバーとしたスイスチームの競争力は高く、第1シーズンはフランスに次ぐランキング2位で終え、第3シーズン(2007年 - 2008年)にはチャンピオンを獲得した。第4シーズン(2008年 - 2009年)もランキング2位となる。
スイスチームはA1グランプリの中で最も成功したチームとみなされたが[W 1]、世界金融危機の影響により2009年のレースを最後にA1グランプリは事実上消滅してしまい[W 3]、ウェルティは再び、参加する選手権を失った。
2013年にウェルティはフォルクスワーゲングループのモータースポーツ部門の仕事を始め[W 3]、同グループのランボルギーニのモータースポーツ部門であるスクアドラ・コルセの責任者に就任した[W 1]。
ランボルギーニにおける業務そのものは1年で完了し、その後はフォルクスワーゲンのモータースポーツ活動のコンサルタントを務め、同グループ傘下のフォルクスワーゲン、アウディ、ポルシェ、ベントレー、ランボルギーニの各レース活動について、レース主催者との折衝などを手がけた[W 3]。
2018年にはBMWに移籍し、同社のモータースポーツ部門でフォルクスワーゲン・グループにおける業務と同様のコンサルタント業務を行った[W 3]。
年 | チーム | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | Pos. | Pts |
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1979年 | サウバーレーシング・スイスランド | ローラ・T670 | トヨタ・2T-G | VLL | ÖST | ZOL | MAG | DON | ZAN | PER | MNZ | KNU | KIN | JAR | KAS Ret |
NC | - |
年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
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1979年 | ザウバー | Louis Bärtsch Georges Blättler |
ザウバー・C5 | S2.0 | - | DNA | DNA |
1985年 | ザウバー | ディーター・クエスター ジョン・ニールセン |
ザウバー・C8 | C1 | - | DNS | DNS |
レース以外ではダンスの振り付けに情熱を注いでおり、一時期、ダンス教室を所有していたことがある[W 4][W 2]。