マリアーノ・サルバドール・マエラ Mariano Salvador Maella | |
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![]() 自画像 | |
生誕 |
1739年8月21日 スペイン、バレンシア |
死没 |
1819年5月10日 スペイン、マドリード |
マリアーノ・サルバドール・マエラ(Mariano Salvador Maella Pérez 、1739年8月21日 - 1819年5月10日)はスペインの画家である。肖像画や宗教画を描いた。
バレンシアで生まれた。父親も画家で、父親から絵を学んだ後、11歳でマドリードに出て、新古典派のスタイルをスペインに紹介した彫刻家のフェリペ・デ・カストロに学んだ[1]。その後、王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学し、その技術は教授のアントニオ・ゴンサレス・ベラスケス(Antonio González Velázquez)に注目され、後にベラスケスの娘と結婚することになった。
1757年から1765年までローマで修行した後、マドリードに戻り、アントン・ラファエル・メングスの指揮下で行われたマドリード王宮の改装工事に参加し、メングスの絵のスタイルから影響を受けた。1772年に出版された17世紀の詩人、フランシスコ・デ・ケベードの詩集に挿絵を描いたことも知られている。
1774年に宮廷画家に任じられ、肖像画家として知られるようになった[2]。スペイン各地の宮殿で働き、トレド大聖堂のフアン・デ・ボルゴーニャの描いた壁画の修復やブルゴ・デ・ オスマ大聖堂の壁画の制作、王立タペストリ工場のためのデザインも行なった[1]。1795年にフランシスコ・バイユー(Francisco Bayeu y Subías:1734-1795)が没すると、1798年まで王立アカデミーの監督になった[2]。1799年にフランシスコ・デ・ゴヤとともに筆頭宮廷画家になった。
1808年にナポレオンの圧力下でカルロス4世が退位し、ジョゼフ・ボナパルトがホセ1世としてスペイン王位に就いた時、迷うことなくホセ1世の宮廷に忠誠をつくしたため、1813年にホセ1世が退位し、フェルナンド7世が王位に就くと宮廷画家を解雇され、引退することになった。アカデミーでの地位は弟子のヴィセンテ・ロペス・ポルターニャが継ぐことになった[1]。
1819年にマドリードで没した。