マルゲリータ・マリーア・ファルネーゼ Margherita Maria Farnese | |
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モデナ=レッジョ公妃 | |
在位 | 1692年 - 1694年 |
出生 |
1664年11月24日 パルマ公国、パルマ |
死去 |
1718年6月17日(53歳没) パルマ公国、コロルノ |
埋葬 | パルマ公国、パルマ、サンタ・マリア・デッラ・ステッカータ教会 |
結婚 | 1692年7月14日 パルマ |
家名 | ファルネーゼ家 |
父親 | パルマ公ラヌッチョ2世・ファルネーゼ |
母親 | イザベッラ・デステ |
マルゲリータ・マリーア・ファルネーゼ(Margherita Maria Farnese, 1664年11月24日 – 1718年6月17日)は、パルマ公国の公女。
パルマ・ピアチェンツァ公ラヌッチョ2世・ファルネーゼとその2人目の妻イザベッラ・デステとの娘。
母は弟オドアルドを産んだ際に死去し、わずか2年で遺児となった。ラヌッチョは、マルゲリータの母方の叔母マリーア・デステと再婚し、2人の息子をもうけた。
1692年7月14日パルマにて、モデナ・レッジョ公でアルフォンソ4世・デステの息子フランチェスコ2世・デステと結婚した[1]。結婚の際、宮廷音楽人フランチェスコ・アントニオ・ピストッキは、公が好んだジャンルのオラトリオ『聖アドリアーノの殉教』を作曲した[2]。
モデナ・レッジョ公妃であったは2年だけで、フランチェスコ2世は痛風と多発性関節炎を患い、1694年に亡くなった。子供に恵まれなかったため、フランチェスコ2世の叔父リナルドが公位を継承した。
マルゲリータは1718年の夏に、母を亡くしたのと同じコロルノで死去[3]、そこは1660年に彼女の父により拡張と美化された要塞[4]とファルネーゼ家の夏の別荘[5]があった。