カテゴリー | グループ5 |
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コンストラクター | マーチ |
デザイナー | ロビン・ハード |
後継 | マーチ・74S |
主要諸元 | |
シャシー | アルミモノコック |
サスペンション(前) | ダブルウイッシュボーン |
サスペンション(後) | トップシングル/ロアパラレル 4リンク式サスペンション |
全長 | 3550㎜ |
全幅 | 1820㎜ |
全高 | 1140㎜ |
トレッド | 前1465㎜/後1360㎜ |
ホイールベース | 2390㎜ |
トランスミッション | ヒューランドFG400 |
主要成績 |
マーチ・735は、イギリスのマーチ・エンジニアリングが1973年度の国際自動車連盟(FIA)グループ5規定対応のオープン2座席レーシングカーとして開発された。 マーチの発表時は、マーチ・735としてアナウンスされたが、その後マーチとしては、2座席スポーツカーは、このマシンしかないので、マーチ・73Sと呼ばれるようになった。
スポーツカー世界選手権は、1971年から規定を改正して、シリーズ名称を「世界メーカー選手権」に変更し、排気量5000 ㏄のプロトタイプスポーツカーを排除し、参加車両を排気量3000 ㏄までのオープントッププロトタイプカーのグループ5に限定した。この時に、メーカーは主に排気量3000 ㏄に、プライベートは排気量2000 ㏄のクラスに参戦するようになった。
一方ヨーロッパ・フォーミュラ2(F2)選手権も1972年から排気量が2000 ㏄に拡大され、2000㏄のエンジンを入手すればF2と2000 ㏄スポーツカーの2つのシリーズに参戦が可能となり、ヨーロッパや日本では、排気量2000㏄のエンジンを搭載するオープン2座席スポーツカーの需要が増大した。
そこでマーチは、従来から供給しているF2と互換性のあるスポーツカーを供給すれば、両方のシリーズの参戦が容易になると考え、開発したグループ5規定に準拠したオープン2座席スポーツカーで、ロビン・ハードが設計した。
マーチは、オープン2座座席スポーツカーを1976年のシーズン用まで足掛け4年制作したが、シャーシはすべて73Sと共用でカウルのみ毎年変更していた。
日本のレーシングマシンのコンストラクタにとって、マーチの基本寸法は、以降日本で開発される2000㏄級のエンジンを搭載したレーシングマシンの基本寸法となり、シャーシ等の構造や構成が基本内容になるなど、日本のレーシングコンストラクタに与えた影響は大きかった。
本稿においては、基本的にはマーチ73Sに関して記述するが、マシンとしての内容はマーチ74S、75S、76Sの内容も含む形で記述する。
当時のマーチのF2マシンは、前半部はアルミ板金製ツインチューブモノコック/後半部は鋼管スペースフレームを合わせる構造を採用していた。これと同じ手法でシャーシを開発した。
1975年度にF2と2座席スポーツカーは、燃料タンク側面にクラッシャブルストラクチャー設置が義務化された。この規定に対してF2マシンは、モノコックの外側のサイドポンツーンに衝撃吸収構造を取り付ける形での対応を行った。マーチは、マーチ・752にてサイドポンツーンを車幅いっぱいにとって、新規定対応した。その際に、モノコックのリアバルクヘッド形状変更を一部変更して、73Sのリアフレーム(鋼管スペースフレーム)を組み合わせたのでF2とスポーツカーとの完全互換性が取れるようになった。なおマーチは、スポーツカーに対しては、カウルに衝撃吸収材を取り付けてマーチ・75Sから対応した。
GCにおいては、30度バンクの影響でリア剛性が低くなり、エンジントラブル(オイルリーク等)が発生したの、エンジンとモノコックバルクヘッド及びトランスミッションをパイプで結んで剛性を補った。
マーチは、1977年から2座席スポーツカーの生産を中止した。そのため シャーシの供給ができなくなったので、日本では、ノバエンジニアリングや伊藤レーシングがレプリカシャーシを製造して希望するマーチユーザに提供した。このレプリカシャーシは、日本で入手可能なJIS規格に準拠した材料とユーザからの従来シャーシに対する改善要望をいれて製作された。マーチユーザーは、76Sの従野以外が採用した。このレプリカシャーシを導入したチームは、メインマシンとして使用すると同時に、オリジナルのマーチシャーシをスペアシャーシやGCに参戦を希望する若手ドライバーに貸し出したりして、使用した。
フロントオーバーハングを抑えダウンフォースよりドラッグを低減させるために、ダルノーズ(先端がストンと落ちるノーズ)をベースとした曲面デザインを採用している。しかしながら、タイヤハウスがこのダルノーズの基本形状から前側に出っ張るので、基本形状とタイヤハウスの出っ張りをなだらかな曲面でつなぎ、空気抵抗の増加を抑えるようにした。そのため、中央部にわずかなへこみを設けたV字型断面のカウル構成になっている。
また運転席に関しては、助手席と一体にした風防をフロントカウルに設置して、運転席への空気流の巻き込みを防止している。 富士で走る場合に、ダウンフォースが大幅に不足して、のちにフロントノーズ先端にリップスポイラの設置等の大改造を受ける。
センターカウルは、ドア部分とラジエターインレット部分の2ヶ所から構成される。 ドアは、フロント部にヒンジを持つ構造で、天面はフラットで、給油用の穴が開いている。
ラジエタインレットは、モノコックのリアバルクヘッドの両側に取り付けられたラジエタに空気を取り入れ送る形になっている。形状は、NACAスクープに似た形になっているが、ダクトとしての掘り込みを深くして、冷却用空気を多く取り込む形になっている。
リアカウルは、ドアからの延長でマシン後端までほほフラットな形状になっている。運転席からの空気流の整流のため、運転席の幅に合わせて低めの垂直フィンがリアカウル後端まで立っている。リアウイングは、装着されずに、リアスポイラーがリアカウルエンドに装着されている。
リアフェンダの後部トレッド面は、グループ5の規定により、覆われ、リアタイヤが巻き込んだ空気を外へ出すためのアウトレットが設置されている。 リアカウルの後部端面は、リアタイヤのトレッド面以外は、遮蔽面がない大きな空間となり、ラジエタからの熱気を後方へ抜くかたちになっている。また 運転席後方のリアロールバーは、そのまま空気中に露出している。
富士スピードウェイで走る場合に、ダウンフォースが大幅に不足しているのが判明し、リアスポイラからリアウイングへの大変更を受ける。
サスペンションは、同時期のF2マシンのマーチ・732と共用している。
ブレーキは、4輪ともベンチレーテッド・ディスクで、前輪はアウトボード/後輪はインボードで設置している。この当時は、リアブレーキは、トランスミッションから出てくるドライブシャフトのミッション側に装着している。
1973年のマシン登場時は、マーチはBMWと専属契約を結んでいたので、2000㏄の直列4気筒のBMW・M12/6が標準であった。
一応 他の2000㏄の直列4気筒エンジンの搭載が可能なようになっている。この独占契約は、他のマシがBMWエンジン搭載を拒んだ。
富士グランチャンピオンレース(富士GC)の第1戦で、ヒーローズレーシングの黒沢元治がマーチ/田中弘がオリジナルのKS-2でエントリしていたが、この独占契約のため、田中弘はGC第2戦時にマシンをマーチに変更を余儀なくされた(最もKS-2の戦闘力が低かったという事情もあるが)。
後年 日本では、1975年のGCレースに長谷見昌弘が日産のLZ18B改(2000㏄)で参戦している。
また ロータリーエンジンの13Bに対しては、1976年から片山義美が同系列のマーチ・75Sで参戦を開始する。マーチ・73Sとしては、1979年のGCレースで佐藤文康がマツダ・13Bを搭載する。
エンジンの搭載に関しては、エンジンのリア側は、ギアボックス上部と結合、前方は、エンジン最前端をロッドでリアバルクヘッドと結び、エンジン前部がロッドで宙吊りされている構造を採用している。エンジン変更時には、前側ロッドの形状変更で対応可能なようになっている。
F2のマーチ・732と同じヒューランドの5速のFG400を採用
1974年のシーズン用にマーチ・73Sの空力的欠陥を改良したマシン。
カウルを変更して、マーチ・73Sで不足していたダウンフォースを確保した。カウルの変更内容は、日本のヒーローズレーシングの改良内容をマーチが取り込んで、フロントカウルにダウンフォース確保のため大型リップスポイラを追加し、リアカウルの後ろにリアウイングへ空気を送る導風板のフィンを追加してリアウイングを設置する大幅改良を行った。
日本では、黒沢、漆原、高原がGC第1戦から、GC第2戦から
1975年のシーズン用にカウルの大幅変更を実施。
基本的なフォルムは、ウエッジシェイプで、ボディ全高を可能な限り低く設定し、前面投影面積の削減を意図した。背の高くなるタイヤハウスや運転者着席部とエンジン収納部のみをカウル天面から張り出す形状を採用。
エアボックスは、最新のフォーミュラ1カーに触発されて、巨大なものを採用した。
リアカウルは、リアフェンダー後部をカウル天面高さで延長してややロングテール状にして、その上部にボディ全幅に合わせたリアウイングを設置した。
ダウンフォースは、ノーズ・カウル先端のリップ・スポイラとテール・ウイングで得る。運転席部には、空気の巻き込みを防止するためにフランジ状のフィレットを追加したが、ヨーロッパではこのフィレットを外す形でレースに参戦していた。モノコックのセンターチューブセクションを覆うセンターカウルには、75年FIAレギュレーションに沿ったデフォーマル・ストラクチャ(衝撃吸収構造)が組み込まれている。カウル外周部に、内部がウレタンフォーム/外側が厚いFRP構造となり約130㎜程度のクラッシャブル・ゾーンとなっている。
サスペンション構成は、73Sの構造を踏襲しているが、前後のアップライトの形状を変更してジオメトリ変更を実施した。
日本では、1976年に片山義美と鮒子田寛の2名がヨーロッパから中古で導入したが、オリジナルカウル空気抵抗が大きくカウル変更を余儀なくされた。
1976年のシーズン用にマーチ・75Sのカウルをそのまま踏襲した。日本のレースでは、マーチ・75S同様空気抵抗が大きくカウル変更を余儀なくされた。 日本では。コジマエンジニアリング(KE)が長谷見昌弘用に1978年7月に1台導入した。
KEは、1976年の鈴鹿の日本グランプリ自動車レースのF2レースにマーチのワークスチームを招聘して、ワークスにおけるマシンの改造内容を把握して、76Sに反映させた。しかしながら、KEは翌年開催されるF1の日本グランプリにオリジナルマシンを開発して参戦する意向を示したので、従野孝司にマシンを譲渡する。
改造箇所は、アップライトとギアボックス・アンダーキャリアをアルミ鋳造からマグネシウム鋳造へ、フロントサスペンションピックアップ部の強化である。従野は、譲渡を受けた76SにREの13Bを搭載し、ムーンクラフトのカウルを大改造(フロントにラジエタ追加)して1977年9月のGC戦でREとして初めての優勝を果たす。
1983年にムーンクラフトがマーチのオープンスポーツカーのシャーシを活用した、グループC2マシン。ロールバーでクローズドルーフを形成する方法で、世界一安価なグループCマシンとうたって販売した。
1973年の日本の富士GC第1戦で、オリジナルカウルは、ダウンフォースの不足と空気抵抗の多さを露呈した。その対応としてサカイレーシングとヒーローズレーシングの取り組みを説明する。
ヒーローズレーシングでは、黒沢元治が中心となって、オリジナルカウルに空力的付加物を追加して、ダウンフォースの発生状況を把握したうえで、その付加物内容を織り込んだ新型の一体型カウルを作成する方向で開発を進めた。この改善内容は、最終的にマーチに連絡されて、次年度のマーチ・74Sのカウルに改善に活用された。
サカイレーシングは、由良拓也にマーチ・73Sのカウルの全面改良を委託した。本稿では、由良拓也の取り組み内容に関して、記述する。
1976年7月の鈴鹿のレースで、「マーチのオリジナルカウルでは、ライバルとは戦えない」と判断した、マーチ・75Sの片山とマーチ・76Sの長谷見は、マーチ・73Sのセンターカウルがないのでムーンクラフトではない新規のカウルを必要とした。両者とも関西のレーシングチームであるので、関西のコンストラクタである鴻池レーシングに、マーチの新型カウル作成を依頼した。
この依頼を受けて、鴻池レーシングは、フロントにウエッジシェイプを基調としリアにロールバーを覆うクローズドルーフのカウルを作成した。 フロントカウルは、フェンダ部と中央部に分かれ、フロントのオーバーハングの増加を防ぐために、フロント最前面にノーズ・スポイラを設置して、中央部にウエッジシェイプ、フェンダ部はダルノーズとした。
このカウルは、タイヤのホイールアーチ部の隙間がムーンクラフトよりも大きので、カウルの浮き上がりが発生するのと前面投影面積が大きかったので、1977年3月の富士GC第1戦まで片山が使用し、1977年5月の富士1000㎞で片山/従野のペアで優勝を獲得した。その後1977年6月のGC第2線からムーンクラフトカウルに交換された。
なお 1977年5月の富士1000kmで片山/従野のペアでの優勝は、マーチの2座席スポーツカーでのMCS以外のカウルでの初めての優勝を記録した。