ミネアポリス (重巡洋艦)

ミネアポリス
USS ミネアポリス(1943年4月11日)
USS ミネアポリス(1943年4月11日)
基本情報
建造所 フィラデルフィア海軍造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
級名 ニューオーリンズ級重巡洋艦
愛称 ミニー (Minnie)[1]
艦歴
発注 1929年2月13日
起工 1931年6月27日
進水 1933年9月6日
就役 1934年5月19日
退役 1947年2月10日
除籍 1959年3月1日
その後 1960年7月、ペンシルベニア州チェスターにて解体。
要目
基準排水量 9,950 トン
全長 588 ft (179 m)
最大幅 61 ft 9 in (18.82 m)
吃水 19 ft 5 in (5.92 m)
主缶 B&W水管ボイラー×8基
主機 ウェスティグハウス製ギアードタービン×4基
推進 スクリュープロペラ×4軸
出力 107,000 hp (80,000 kW)
最大速力 32.7 kn (60.6 km/h; 37.6 mph)
乗員 士官102名、兵員817名
搭載能力 重油:1,650 トン
兵装
装甲
  • 水線部:3 - 5 インチ (76 - 127 mm
  • 甲板部:1.25 - 2.25 インチ (32 - 57 mm)
  • 砲塔部:1.5 - 8 インチ (38 - 203 mm)
  • バーベット:5 インチ (127mm)
  • 司令塔:5 インチ (127mm)
搭載機 水上機×4機
その他 カタパルト×2基→1基[注釈 3]
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ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) は、アメリカ海軍重巡洋艦ニューオーリンズ級重巡洋艦の3番艦。艦名はミネソタ州ミネアポリスに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

艦歴

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ミネアポリスは1931年6月27日にフィラデルフィア海軍造船所で起工した。1933年9月6日にグレース・L・ニュートンによって命名、進水し、1934年5月19日に艦長ゴードン・W・ヘインズ大佐の指揮下就役した。

1934年7月から9月にかけてヨーロッパ水域で行われた整調後、ミネアポリスはフィラデルフィア海軍工廠で修理と変更が行われ、1935年4月4日に出航、パナマ運河を経由して4月18日にサンディエゴに到着、偵察部隊の第7巡洋艦分艦隊に合流した。ミネアポリスは西海岸沿いに作戦活動に従事し、1939年の初めにはカリブ海へ巡航、1940年に真珠湾に到着した。

第二次世界大戦

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1941年 - 1942年

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1941年12月7日の真珠湾攻撃当日、ミネアポリスは砲術訓練のため真珠湾から32キロ離れた海域を航行中だった。ミネアポリスは1942年1月まで哨戒を行った後、空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) 」基幹の第11任務部隊ウィルソン・ブラウン中将)に加わった。ギルバート諸島マーシャル諸島を攻撃する第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)および第17任務部隊(フランク・J・フレッチャー少将)に呼応して打撃を与えるため、第11任務部隊は当初ウェーク島に向かう予定だった。しかし、1月23日に真珠湾を出撃した直後、給油艦「ナチェス (USS Neches, AO–5) 」が潜水艦「伊72」に撃沈され、燃料不足が懸念されたことと代わりのタンカーがいなかったこともあって、第11任務部隊のウェーク島への奇襲作戦は中止された[3][4]。翌1月24日、第11任務部隊は真珠湾に帰投した。2月1日、第11任務部隊は改めてラバウルに向けて出撃した。2月20日、ミネアポリスは「レキシントン」を護衛中に3機の一式陸攻の空襲を受けたが、これを撃退した(ニューギニア沖海戦)。ミネアポリスは3月10日に、第17任務部隊と合同で行われた奇襲に参加し、オーエンスタンレー山脈を越えた艦載機の攻撃はラエサラモアの日本軍を混乱させ、補給路を脅かした。

ミネアポリスは、5月4日から8日にかけて繰り広げられた珊瑚海海戦でも、「レキシントン」の直衛にあたった。3機の日本機を撃墜したものの、「レキシントン」は被弾して失われた。しかし、オーストラリアおよびニュージーランド方面への日本軍の勢力拡大の動きを阻止した。ミネアポリスは「レキシントン」の生存者を救助した。続くミッドウェー海戦にも参加した。ミネアポリスは真珠湾で補給と修理を行い、ソロモン諸島方面へ向かった。8月7日からのガダルカナル島の戦いでは機動部隊を護衛し、ガダルカナル島ツラギ島への上陸を援護した。8月30日、空母「サラトガ (USS Saratoga, CV-3) 」が潜水艦「伊26」の雷撃により損傷し、ミネアポリスはサラトガを曳航して後方地域に向かった。9月から10月にかけてはルンガ・ポイントフナフティ島の間で陸上部隊輸送の護衛を行った。

ルンガ沖夜戦(タサファロング沖海戦)

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ルンガ沖夜戦で損傷したミネアポリス
ヤシの葉やネットでカモフラージュされたミネアポリス
仮艦首を付けたミネアポリス

11月29日、ミネアポリスは第67任務部隊英語版カールトン・H・ライト少将)の旗艦として、「東京急行」を封じるべくガダルカナル島沖に急行した。11月30日が終わろうとするその少し前、田中頼三少将率いる第二水雷戦隊の一隊がサボ島の西南方からアイアンボトム・サウンドに進入。第67任務部隊はレンゴ水道からヘンダーソン飛行場寄りのコースで進入した。

深夜、互いの部隊が相手を探知したことからルンガ沖夜戦が始まった。第67任務部隊の攻撃は、ミネアポリスの砲撃により警戒隊の駆逐艦高波を爆発炎上させた。しかし、高波が撃たれ続けている間に第二水雷戦隊が発射した酸素魚雷が第67任務部隊に襲い掛かった。ミネアポリスには魚雷が左舷艦首に2本命中し、一番砲塔より前部がもぎ取られ、ボイラー室と発電室が大きく損傷した。特にボイラー室は海水に浸るほどの被害であったが、応急措置と巧みな操艦術により沈没は免れ、ミネアポリスはツラギ島に後退した。後ろを航行していた姉妹艦「ニューオーリンズ (USS New Orleans, CA-32) 」も魚雷の命中で艦首をもぎ取られたが、こちらは一番砲塔をも失った。重巡「ペンサコーラ (USS Pensacola, CA-24) 」も艦後部に魚雷が命中して大きく損傷し、巡洋艦群の最後を航行していた重巡「ノーザンプトン (USS Northampton, CA-26) 」は沈没した。ツラギ島に到着すると、ミネアポリスは敵の目を欺くためヤシの葉や低木でカムフラージュされ、「ニューオーリンズ」もこれに倣った。また、ツラギ島にいたシービーによって必要最小限の修理が行われ、ミネアポリスはメア・アイランド海軍造船所に回航することが可能となった。歴史家サミュエル・エリオット・モリソン曰く、ルンガ沖夜戦は「優勢な巡洋艦隊が劣勢な日本の駆逐艦に痛めつけられて敗北した海戦」だった。

1943年 - 1944年

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ミネアポリスは1943年8月に戦線に復帰し、以後20ヵ月に及んで太平洋戦線の主要な戦いに参加し続けた。復帰後、10月5日と7日に行われたウェーク島への攻撃に参加。11月20日から12月4日までのブタリタリへの攻撃と、1944年2月中旬までのクェゼリンの戦いおよびマジュロ占領作戦に際しては、第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の護衛にあたった。2月17日から18日に行われたトラック島空襲にも参加した。

第5艦隊司令長官であるスプルーアンス大将は、トラック諸島内にいまだ有力艦船が多数残っていると考え、空襲後には外に出てくるだろうと推測した[5]。どうしても先頭を切って戦いたかった[5]スプルーアンス大将は、脱出してきた有力艦船との砲戦を念頭に、これまでの第5艦隊旗艦「インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) 」から乗り換え、配属されたばかりの戦艦「ニュージャージー (USS New Jersey, BB-62) 」を新たな第5艦隊旗艦にしたのである[5]。ミネアポリスは、タサファロング沖でともに舳先をもぎ取られ、ともに復帰してきたニューオーリンズとともにロバート・C・ギッフェン少将に率いられ[6]、スプルーアンス大将直率の戦艦「ニュージャージー」および「アイオワ (USS Iowa, BB-61) 」、駆逐艦4隻とともにトラック諸島の外を一周。午後もだいぶ経った頃、部隊は艦載機の空襲により航行不能になっていた軽巡洋艦香取」と駆逐艦「舞風」、および脱出を図る駆逐艦「野分」を発見。スプルーアンスは戦艦の目標を「野分」に、ミネアポリスと「ニューオーリンズ」の目標を香取にと割り振った[6]。「野分」は脱出に成功したが、「香取」と「舞風」は射撃を続けながら沈没していった。また、この戦いの前後に特設駆潜艇および駆潜艇を砲火で撃沈した。

第58任務部隊はトラック攻撃の後にマリアナ諸島を攻撃。休息と整備を挟んで3月から4月にかけてカロリン諸島パラオ、トラックおよびサタワン環礁ポンペイ島を攻撃した。これらの攻撃は、4月のホーランディアへの上陸作戦の援護を兼ねたものだった。ミネアポリスは5月にマジュロに帰投し、休養後マリアナ諸島への攻撃に参加、6月14日にサイパン島に対して艦砲射撃を行った。日本艦隊が接近しつつあるという報に接し、ミネアポリスは第58任務部隊に再合流。6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦では、ミネアポリスは第7戦艦部隊(ウィリス・A・リー中将)の指揮下にあり、至近弾を投下されたが大した損傷ではなかった[7]。海戦はアメリカ側の大勝利に終わった。7月8日から8月9日にかけては、ミネアポリスはグアムの戦いに参加し、昼夜分かたぬ艦砲射撃により第3海兵師団長から「上手く行われた任務」と賞賛された。9月6日から10月14日にパラオへの攻撃に参加した後、息つく暇なくレイテ島に向かい、10月17日にレイテ湾に入って事前砲撃を行い、反撃してきた5機の日本機を撃墜した。

スリガオ海峡の夜戦

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日本艦隊は、3方向から艦隊を進撃させてレイテ湾を目指した。レイテ沖海戦である。ミネアポリスは第77部隊(ジェシー・B・オルデンドルフ少将)の一艦として、南方からの敵の侵入を防ぐため、スリガオ海峡に展開した。やがて、西村祥治中将の艦隊が接近。10月25日未明、魚雷艇隊は西村艦隊と接触。次いで駆逐艦群が突撃して戦艦「扶桑」と駆逐艦「朝雲」「山雲」「満潮」を撃沈した[8]。残るは戦艦「山城」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦「時雨」だけになっていた。この時点でオルデンドルフは、第77部隊の弾薬事情が多少心細いことを知り、効果的に弾薬を使うため戦艦・巡洋艦部隊を三分した。ミネアポリスはオルデンドルフの旗艦「ルイビル (USS Louisville, CA-28) 」らとともに二段目に配備された。背後の三段目には真珠湾から甦った戦艦群がおり、オルデンドルフ少将は丁字戦法を採用して一気の砲撃で決着をつけようとした[9]。「ルイビル」のレーダー探知を元に一斉砲撃が始まった[10]。西村艦隊の残存艦は袋叩きにされ、「山城」は西村とともに海に消え、「最上」は脱出に成功したが最終的には撃沈された。「時雨」のみ生還して西村艦隊は全滅。戦艦同士の最後の砲戦[10]はオルデンドルフの完勝に終わった。スリガオの夜戦の後のミネアポリスは、フィリピン水域で第38任務部隊(ミッチャー中将)の護衛と艦砲射撃を交互に行った。

1945年

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ミネアポリスは1945年1月4日から18日にかけて行われたルソン島リンガエン湾への上陸支援、2月13日から18日にかけて行われたバターンコレヒドール島上陸への支援を行い、3月は沖縄戦の準備を行う。沖縄諸島海域には25日に到着し、艦砲射撃を開始した。慶良間列島への砲撃でミネアポリスは地上部隊に支援を行い、4月1日に始まった侵攻では沖縄本島那覇市の飛行場を砲撃した。地上部隊は無線で目標位置を正確に報告し、ミネアポリスはその情報を基に精密射撃を行った。

数ヶ月間におよぶ支援任務の後、ミネアポリスの砲身は摩耗が進み交換が必要となった。4月12日に航海の準備を行ったが、出発は沖縄戦における最大の航空攻撃、菊水二号作戦により遅れた。戦闘でミネアポリスは4機の特攻機を撃墜し、3機が海に墜落するのを目撃した。夕方にミネアポリスは出航、ワシントン州ブレマートンに向かう。ブレマートンでは修理と砲身交換を行い、作業完了後戦場に復帰した。終戦時ミネアポリスはフィリピンのスービック湾にあった。

ミネアポリスは第二次世界大戦の戦功で16個の従軍星章を受章した。

戦後

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ミネアポリスには第7艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将が座乗し、朝鮮半島で9月9日に日本軍の降伏を受諾した。その後は黄海の偵察巡航を行い、海兵隊中国大沽砲台および秦皇島へ上陸するのを支援した。西海岸へ帰還兵を運んだ後、ミネアポリスは1946年1月14日にパナマ運河およびフィラデルフィアへ向けて出航した。フィラデルフィアで5月21日に予備役となり、1947年2月10日に退役する。ミネアポリスは1959年8月14日にユニオン・メタルズ・アンド・アロイズ社にスクラップとして売却された。

脚注

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注釈

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  1. ^ 1942年の改装時に撤去。
  2. ^ a b 1942年の改装時に装備[2]
  3. ^ 1942年の改装時に撤去[2]

出典

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  1. ^ Ship Nicknames”. zuzuray.com. 5 October 2015閲覧。
  2. ^ a b Rickard, J (19 December 2014). “USS Minneapolis (CA-36)”. Historyofwar.org. 8 October 2015閲覧。
  3. ^ 『戦史叢書38』pp.377, 414。石橋 p.244。
  4. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II--1942”. www.ibiblio.org. 2022年7月20日閲覧。
  5. ^ a b c ブュエル, 358ページ
  6. ^ a b ブュエル, 363ページ
  7. ^ 木俣『日本空母戦史』627ページ
  8. ^ 木俣『日本水雷戦史』503、504ページ
  9. ^ 木俣『日本戦艦戦史』563、564ページ
  10. ^ a b 木俣『日本戦艦戦史』564ページ

参考文献

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  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書38 中部太平洋方面海軍作戦(1)昭和十七年五月まで朝雲新聞社、1970年
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1970年
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • トーマス・B・ブュエル/小城正訳『提督スプルーアンス』学習研究社、2000年、ISBN 4-05-401144-6
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年

外部リンク

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