ミフラーン家

ミフラーン家
中世イランアルシャク朝サーサーン朝
著名な人物 バハラーム・チョービンシャフルバラーズ

ミフラーン家Mihrānパフラヴィー語:𐭬𐭨𐭥𐭠𐭭)は、中世イランの重要な貴族であり、サーサーン朝七大貴族の1つ[1]。この家系の一支流は、カフカス・アルバニア王国のミフラーン系王統とKaltliのChosroid王朝を形成した[2]

歴史

[編集]

ミフラーン家は、サーサーン朝の第2代王であるシャープール1世の政治、軍事、宗教活動について語るKa'ba-ye Zartoshtの3世紀半ばの3か国語碑文において始めて言及される。この家系はサーサーン朝時代を通して代々シャフレ・レイの「支配者(margraves)」の地位にあった。ミフラーン家に属する幾人かの人間が、ビザンツ帝国とサーサーン朝の戦争で将軍を務めた。ギリシア語の史料ではシンプルに「Mihran 」や「mirranēs(Μιρράνης)」という名前で言及されている。実際、プロコピウスは著書『戦史』において、ミフラーンという家系の名前は将軍に相当する称号であると考えている[3][4]

ミフラーン家出身の著名な将軍には次のような人物がいる。アナスタシア戦争[5]、ダラの戦い[6]における最高司令官ペロゼス(ペーローズ)。アルメニアでビザンツ帝国と戦ったGolon Mihran[7]ホスロー2世に対するクーデターを主導し、短期間の間(590から591年まで)王位を主張したバハラーム・チョービン[8][9]。ビザンツ帝国とサーサーン朝の間で戦われた最後の戦争の司令官であり、後に王位簒奪者となったシャフルバラーズなどである。

4世紀の間に、この家族の分流といわれる家系がイベリア(Chosroids)、Gogarene、アルバニア(Gardman、ミフラーン朝)というカフカス地方の3つの王国の王位を獲得した[10]

遥か後の時代、9世紀と10世紀にイランの大部分を支配したサーマーン朝は、バハラーム・チョービンの後裔、ミフラーン家の末裔としての地位を主張したが[11][12][13][14] 、これが事実かは不明である。

脚注

[編集]
  1. ^ Yarshater (1968), p. xlii
  2. ^ Yarshater (1968), p. lviii
  3. ^ Procopius, History of the Wars: The Persian War, I.13.16
  4. ^ Dodgeon, Greatrex, Lieu (1991), p. xx
  5. ^ Procopius, The Buildings, II.2.19
  6. ^ Procopius, History of the Wars: The Persian War, I.1314
  7. ^ Dodgeon, Greatrex, Lieu (1991), pp. 149–150
  8. ^ Yarshater (1968), p. 163
  9. ^ A. Sh. Shahbazi. Bahrām Archived 2007-12-15 at the Wayback Machine.. Encyclopædia Iranica Online Edition. Accessed October 15, 2007.
  10. ^ Toumanoff, Cyril. Introduction to Christian Caucasian History, II: States and Dynasties of the Formative Period. Traditio 17 (1961), p. 38.
  11. ^ Britannica, "The Samanids", Their eponym was Sāmān-Khodā, a landlord in the district of Balkh and, according to the dynasty’s claims, a descendant of Bahrām Chūbīn, the Sāsānian general.[1] または [2]
  12. ^ Kamoliddin, Shamsiddin S. "To the Question of the Origin of the Samanids", Transoxiana: Journal Libre de Estudios Orientales, ]
  13. ^ Iran and America: Re-Kind[l]ing a Love Lost By Badi Badiozamani, Ghazal Badiozamani, pg. 123
  14. ^ History of Bukhara by Narshakhi, Chapter XXIV, Pg 79