メアリー・リチャードソン・ケネディ Mary Richardson Kennedy | |
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生誕 |
Mary Kathleen Richardson 1959年10月4日 ![]() |
死没 |
2012年5月16日(52歳没)![]() |
教育 |
パットニー・スクール ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン ブラウン大学 |
職業 |
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配偶者 |
ロバート・ケネディ・ジュニア (結婚 1994年、sep. 2010年) |
親戚 | ケネディ家 |
メアリー・リチャードソン・ケネディ(Mary Richardson Kennedy, 1959年10月4日 - 2012年5月16日 )は、アメリカ合衆国のインテリアデザイナー、建築家、慈善家である。緑の建築の提唱者であり、またアメリカ最大の食物アレルギー研究基金であるフード・アレルギー・イニシアチブの共同創設者である。夫はロバート・ケネディ・ジュニアであったが2010年に別居した。彼女は2012年に自殺し、メディアの注目を浴びた。
メアリー・キャスリーン・リチャードソン(Mary Kathleen Richardson)は1959年10月4日に生まれ、ニュージャージー州ベイヨンで育った。父のジョン・F・リチャードソン(John F. Richardson)は弁護士であり、またスティーブンス工科大学の教授だったが、彼女が12歳の時に亡くなった[1]。母のナンシー・ヒギンズ(Nancy Higgins)は公立学校の英語教師であった[1][2]。彼女には4人の姉妹と2人の兄弟がいた[2]。
彼女はパットニー・スクールに通い、そこでロバート・F・ケネディとエセル・スカケル・ケネディの娘のケリー・ケネディとルームメイトとなる。彼女は大学でもルームメイトとなり、さらに1990年のアンドリュー・クオモとケネディの結婚式では付き添い人を務めた[3][1]。
彼女はブラウン大学を卒業し、さらにロードアイランド・スクール・オブ・デザイン(RISD)で建築デザインを学んだ[4]。
またケリーによるとメアリー1980年の学期には芸術家のアンディ・ウォーホルのもとで働いていた。エドワード・ケネディが大統領選に出馬した際には当時20歳のメアリーはウォーホールの他にロバート・ラウシェンバーグ、ロイ・リキテンスタイン、ジュリアン・シュナーベルといった著名な芸術家から寄付を集めた[4]。
RISDで建築を学んだ彼女は1980年代にマンハッタンのソーホーに住み、ボヘミアン・カルチャーに取り組んだ[5] 。
1993年に彼女はパリッシュ・ハドリー・デザイン会社で建築デザイナーで働いた[1]。彼女はアメリカ副大統領の官邸であるワシントンD.C.の海軍天文台の改修に携わった[6]。彼女の仕事はグリーンビルディングの実践を含み、リーダーシップ・イン・エナジー・アンド・エンバイロンメント・デザイン・プログラムを通じて認定された[7]。
1998年にアメリカ最大の食物アレルギー研究のための民間基金であるフード・アレルギー・イニシアチブを共同設立した[6]。
1994年4月15日にケリー・ケネディの兄のロバート・ケネディ・ジュニアとハドソン川の調査船上で結婚した。夫婦はジョン・コナー・リチャードソン・ケネディ(John Conor Richardson Kennedy)、キーラ・ケネディ(Kyra LeMoyne Kennedy)、ウィリアム・フィンバー・ケネディ(William Finbar Kennedy)、エイダン・カオマン・ビエケス・ケネディ(Aidan Caohman Vieques Kennedy)の4人をもうけた[8]。また彼女はロバートの前妻のエミリー・ルース・ブラック(Emily Ruth Black)とのあいだに生まれたロバート・フランシス・ケネディ3世(Robert Francis Kennedy III)とキャスリーン・アレクサンドラ・ケネディ(Kathleen Alexandra Kennedy)の継母である[9]。
2010年5月12日、彼女は夫から離婚を申請された。3日後、彼女は逮捕されて飲酒運転で起訴された[1]。彼女はアルコール依存症と薬物乱用に苦しんでいたと報じられた[9]。裁判所は子供たちの親権を夫側に与えるように命じた[10]。
2012年5月16日、ニューヨーク州ベッドフォードの自宅で死亡している彼女が発見された[11][12]。死因は首つり自殺によると断定された[13]。また剖検により血液から抗うつ剤が見つかった[14]。ケネディ家主催による葬儀はベッドフォードの聖パトリック・カトリック協会で行われた[15][16]。2012年5月21日、リチャードソン家主催による追悼式がマンハッタンのスタンダード・ホテルで開催された[17]。彼女の遺体の管理を巡って元夫のロバート・F・ケネディ・ジュニアと兄弟のトーマス・W・リチャードソンのあいだで法廷闘争に発展した[17]。