メイ・ウィルソン・プレストン May Wilson Preston | |
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生誕 |
1873年8月28日![]() |
死没 |
1949年5月18日(75歳没)![]() |
メイ・ウィルソン・プレストン(英語: Mary (May) Wilson Watkins Preston, 1873年8月28日 - 1949年5月18日)はアメリカ合衆国の画家、イラストレーターである[1]。
ニューヨークで生まれた[2]。若い頃から絵を描き、16歳の時にはニューヨークのウィメンズ・アート・クラブの創立メンバーになった[3]。美術家になるのに反対な両親はオーバリン大学に1889年に入学させたが1892年に、教師の一人に両親を説得してもらい、美術の道に進んだ[4]。アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで1892年から1897年までウィリアム・メリット・チェイスやロバート・ヘンライ、ジョン・ヘンリー・トワックトマンに学んだ。その後パリでジェームズ・マクニール・ホイッスラーが開いたアカデミー・カルメンで学んだ[3]。
1901年にアカデミー・カルメンが閉校になるとアメリカに戻り、ウィリアム・メリット・チェイスが設立したニューヨーク美術学校(後のパーソンズ美術大学)で学んだ[4] 。女性画家のエディス・ディモック(Edith Dimock:1876–1955)らと知り合い、女性画家3人でスタジオを開いた[5]。
1898年に結婚するが、最初の夫は1900年に亡くなり[6]、1903年に「アシュカン派」の画家、ジェームズ・ムーア・プレストン(James Moore Preston:1873–1962) と結婚した。友人のディモックもアシュカン派のウィリアム・グラッケンズと結婚し[4]、2組の夫婦は1911年から1917年の間、夏は海辺の町ベルポートで暮らし、一緒にヨーロッパを旅した。プレストン夫妻は芸術家たちの集まるカフェをしばしば訪れた。2人の間に子供は生まれなかった。
メイ・ウィルソン・プレストンが雑誌の挿絵を描き始めたのは、最初の夫が亡くなった後、生活を支えるためで、1900年に雑誌社に絵を持ち込み、翌年ファッション月刊誌、「ハーパーズ バザー」に挿絵が掲載された[2]。「サタデー・イブニング・ポスト」に掲載されたF・スコット・フィッツジェラルドの小説の挿絵などを描き、20世紀初めの主要なイラストレーターの一人となった。
画家としては、1913年のアーモリーショーや1915年のサンフランシスコ万国博覧会に出展し、万国博覧会では賞を受賞した。