メール・ヴェリコヴィチ・バシン Меер Велькович Басин | |
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1918年8月のバシン | |
生年 | 1890年 |
生地 | ロシア帝国モギリョフ県チェリコフ郡チェリコフ |
没年 | 1918年9月20日 |
没地 | ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ザカスピ州クラスノヴォツク郡、カスピ海横断鉄道ペレヴァル駅=アフチャ・クイマ駅間[1] |
思想 | マルクス・レーニン主義 |
活動 |
バクー油田での労働運動の主導 バクー・コミューンの指導 |
所属 | ボリシェヴィキ |
メール(メイル)・ヴェリコヴィチ・バシン(ロシア語: Меер (Меир) Велькович Басин、1890年 - 1918年9月20日)は、ロシアの革命家であり、26人のバクー・コミッサールの一員である。
1890年に[2]ロシア帝国モギリョフ県チェリコフに生まれ、1909年にモギリョフのユダヤ人学校を卒業した[3]。1910年から兵役に就いたが、健康上の理由から半年で除隊し、翌1911年からバクー油田で技師として働き始めた[2]。翌1912年からボリシェヴィキの党員となり、フィリップ・マハラゼやマンメト・マンメジャロフ (az) との知遇を得た[2]。
1914年に石油労働者のストライキを主導して逮捕され[2]、また革命活動による逮捕を繰り返される[3]。1917年5月にはイヴァン・フィオレトフらとともに石油産業労働組合組織の設立者となり、7月にはボリシェヴィキのバクー地区委員会メンバーとなった[2]。9月にはゼネストを主導し、11月からはバクー・ソビエト執行委員会幹部会書記、翌1918年2月には石油労働者連合書記となる[2]。バクー人民経済会議労働局長として、紙幣発行の監督も担当した[2]。4月にバクー・コミューンが発足すると、人民経済会議石油局長に任命され、国有石油企業の保護を担当した[3]。
7月末にコミューンが崩壊すると逮捕され、社会革命党によって他のコミューン成員らとともに9月20日に処刑された[1]。バシンの名はチェリコフとバクーの通りの名として残されていたが[4]、バクーの通りはその後フィズリ通りと改称されている[5]。