モハメド ヨネ | |
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プロフィール | |
リングネーム |
モハメド ヨネ キャプテン・ノア(初代) 米山 サトシ |
本名 | 米山 聡 |
ニックネーム | ミスターアフロ |
身長 | 185cm |
体重 | 110kg |
誕生日 | 1976年2月23日(48歳) |
出身地 | 愛知県名古屋市 |
所属 | プロレスリング・ノア |
スポーツ歴 | バレーボール |
トレーナー | 藤原喜明 |
デビュー | 1995年8月18日 |
モハメド ヨネ(1976年2月23日 - )は、日本の男性プロレスラー。本名:米山 聡(よねやま さとし)。愛知県名古屋市出身。プロレスリング・ノア所属。血液型B型。
1995年、プロフェッショナルレスリング藤原組に入門。8月18日、南足柄市体育センターの対アレクサンダー大塚戦でデビュー。
1996年、格闘探偵団バトラーツに参加。その後、現在のリングネームであるモハメド ヨネを名乗り始めた。リングネームはあくまでアフロ、色黒の風貌に由来するもので、イスラム教徒ではないとのことである。
バトラーツから自身ブランドのスクーターを販売するなど人気選手だったが、徐々に団体が低迷。事実上のバトラーツ解散興行となる東京ベイNKホール大会で安田忠夫に何もさせてもらえず、わずか1分余でフロントチョークにより敗退しインディーとメジャーの違いに愕然とする(安田はバトラーツのレフェリーだった島田裕二の懇願で参戦したが、嫌々だったそうで真剣勝負に出て秒殺したという)。
2001年のバトラーツ活動停止後は、分裂後の全日本プロレスにフリー参戦していたが先輩レスラーでもある池田大輔の後を追い、当時旗揚げ間もなかったプロレスリング・ノアへ参加する。丸藤正道の証言によると、ヨネはノア参加に伴い過去の実績を全て捨て、道場で受身や筋トレなど練習生並に過酷な基礎練習を行っていたという。
2002年10月4日、試合中に右膝の靱帯を断裂し、長期離脱を余儀なくされる。翌2003年8月23日に復帰し、復帰時はトレードマークのアフロヘアーをやめていた。その後、池田がノアを退団するが、ヨネはそのまま残留となった(池田は、退団後もフリーとして継続参戦している)。
2005年3月5日、丸藤を破り第3代GHC無差別級王者となった。この頃から森嶋猛とタッグを組むことが多くなり、2005年10月28日には鈴木みのる&丸藤組よりGHCタッグ王座を奪取している。
2008年9月、これまでGHCヘビー級王座への挑戦は一度もなかったがGHCシングルへ初めて挑戦。ヨネも試合前から王者・佐々木健介を奇襲、キン肉バスターを連発(そのうち一発は場外)して攻めたが、それでも健介を追い詰めることはできず、ヨネのタイトル奪取はならなかった。
2009年1月、力皇猛、金丸義信、鈴木鼓太郎、平柳玄藩らと新軍団であるDisobeyを結成した。
12月6日、日本武道館にて第18代GHCタッグ王者・健介&森嶋組とのタイトル戦で勝利。第19代タッグ王者となった。
同月、ヨネは新日本プロレスの真壁刀義の暴言に反応し新日本前橋大会で真壁を襲撃した。その後、ノアクリスマス興行で今度は真壁がヨネを襲撃、新日本の最大規模興行「レッスルキングダムIV IN 東京ドーム」の記者会見の会場で、方船の襲撃王として真壁を再襲撃した。
2010年1月4日、「レッスルキングダムIV IN 東京ドーム」における新日本プロレスVSプロレスリング・ノア対抗戦に参戦したが、真壁に敗れた。同月、ノアにて行われたグローバル・タッグ・リーグ戦2010に参加するも、タッグ王者でありながら優勝戦線に絡むことなく予選で敗退し、この年の優勝チームでもある高山善廣・佐野巧真組から批判された。
1月31日、日本カバディ協会よりカバディ親善大使に就任。カバディの普及に努める。[1]
2月28日、日本武道館にて高山・佐野組とのタイトル戦を勝利し初防衛を果たした。
3月20日、力皇とのタッグで後楽園ホール大会のメインイベントにおいてビッグマウス・ラウドのビッグ村上・臼田勝美組と対戦するが、終始場外での試合を繰り広げ、ノアでは珍しい無効試合となり観客から大ブーイングを受ける。雪辱を期した2010年3月26日の千葉公園体育館ではGHCタッグ王座をかけて村上・臼田組と対戦、2度目の防衛を果たした。
4月14日、大阪府立体育会館第2競技場で行われたGHCタッグ王座の3度目の防衛戦で、バイソン・スミス&キース・ウォーカー組に敗れ王座から陥落した。
11月には、Disobey加入を要請していた潮崎豪に断られてラリアットを喰らい、潮崎が小川良成や元Disobeyの鈴木鼓太郎と組んだ潮崎軍と対立することとなる。
2011年2月、KENTAが新たにDisobeyに加入するが、翌月にKENTA・金丸・平柳が試合中に裏切り、ヨネを暴行。Disobeyから離脱し、新軍団を結成した。力皇が前年半ばから長期欠場中であるため、ヨネは孤立無援となった。裏切った3人とそれぞれ遺恨決着のシングル戦を行ったが、いずれも他メンバー加入・暴行による反則勝ちとなり、ヨネは3人から玩具呼ばわりされる羽目になった。4月に開催のグローバル・タッグ・リーグ戦2011には、互いにパートナー不在である杉浦貴とタッグを結成[2]。第3位となる。
2011年4月、前述の裏切り以降、抗争を繰り広げていたKENTA・金丸・平柳の新ユニット「NO MERCY」と1対3のハンディキャップマッチを行い、平柳と金丸に勝利するも満身創痍だったこともあり、KENTAに敗北する。
6月11日、KENTAに再びシングルで対戦、ヨネも初の断崖式キン肉バスターでKENTAをエプロン際に設置した机めがけて敢行する。ところがKENTAがこの技で失神、レフェリーストップで勝利するという自身、観客共に不完全燃焼な展開で終了してしまった。
11月27日、Disobeyのメンバーである力皇が頚椎ヘルニアからの復帰が出来ないことを理由に引退を決意。これに伴い、Disobeyも解散となった。
11月に東京都大田区池上に、自らがオーナーを務める飲食店「うまい肉と麺の店 ヨネ家」をオープン[3]。その名の通りステーキとラーメンが主力の店となっている。
2012年1月、丸藤・杉浦の結成した新ユニット「丸藤軍」への加入を熱望するも、丸藤からは即決で断られ杉浦からはシングルマッチで適性試験を受けるが「保留」と判定され、加入できなかった。同月18日に行った谷口周平とのシングルマッチで、谷口の串刺し式低空ドロップキックを受けた際に鼻を負傷するアクシデントとなった。
2012年2月14日、丸藤軍とNO MERCYのタッグマッチの最中に谷口が乱入して丸藤軍を強襲したのを見かね、ジャージ姿で丸藤軍に加勢する形となって乱入した為、試合は8人タッグマッチへと発展。谷口を後ろ回し蹴りからの片エビ固めでフォールを奪い、この試合での奮闘振りを丸藤に認められ、念願の丸藤軍加入が決定した。
2012年2月19日、『ALL TOGETHER 〜もう一回、ひとつになろうぜ〜』ではキャプテン・ノアに扮し、キャプテン・ニュージャパン&キャプテン・オールジャパンと主要団体のキャプテン達が勢ぞろいしてトリオを結成し、参戦した。2015年にもキャプテン・ノア(2代目)が登場しているが、こちらは正体不明である。
2013年7月7日、有明コロシアム大会でKENTAにGHCヘビー級王座への挑戦をアピール。場内は大ブーイングに包まれるも、旗揚げ記念日(2013年8月4日・ディファ有明)での挑戦が決定した。前哨戦では直下型キン肉バスターでKENTAからピンフォールを奪うなどしたが、タイトル戦当日はKENTAにgo 2 sleepで敗れた。
2014年5月17日、東京・後楽園ホールで永田裕志の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗北。その後トレードマークだったアフロを断髪し坊主になる。
池田とタッグリーグで組んだモハメッドボンバーズで杉浦&田中将斗の持つGHCヘビー級タッグに挑戦を表明するも、敗北。
2016年からは髪型を再びアフロに戻し、クワイエット・ストームとのタッグ「50ファンキーパワーズ」を結成。GHCタッグに挑戦予定であったが、ストームの負傷欠場によりタッグ挑戦は流れている。
2017年8月26日に後楽園ホールで行われたタッグマッチではマサ北宮とタッグを組み、原田大輔とタダスケのタッグと対戦。タダスケをキン肉バスターで撃破して好調をアピール。記録は7分32秒、片エビ固めで勝利[4]。
藤原組、バトラーツで鍛えたガッツ剥ぎ出しぶりの豪快なバチバチファイトが特徴。誰にも負けない根性が最大の武器で、その実力は他のレスラーと比較するとほぼ中堅の位置に徹している。
その外国人の名前のようなリングネームから、リングネームを「モハメド・ヨネ」と誤記されることが多く、丸藤正道がtwitter上で注意を呼びかけた[6]。
回転寿司で120皿の完食経験があり、大食いとして有名である[7]。それを活かし、テレビ朝日のバラエティ番組「いきなり!黄金伝説。」に出演。小原正子(クワバタオハラ)とともに大食いチャレンジをしながら全国を縦断する企画に出演した。
プロレスラー以外ではカラーセラピストとしても活動するほか、愛玩動物飼養管理士2級など多くの資格を持つ。ゴルフ、テニス、スキューバダイビング、ビリヤードなど多趣味である。