株式会社ヤオハン(英: Yaohan Co., LTD.、八百半)は、静岡県を拠点とし、1997年に経営破綻した小売業者である。熱海の八百屋から世界的チェーンストアに成り上がり、バブル景気時代に隆盛を誇り、バブル崩壊とともに経営破綻したことから「バブルの象徴」として語られることが多い[1]。
経営破綻後はジャスコ株式会社(現・イオン株式会社)の支援のもとに会社更生に入り、ジャスコの完全子会社となり「マックスバリュ東海」へ商号変更、イオングループの一員となり現在に至る。ヤオハン・ジャパンを除くヤオハングループ(日本国外事業)は1997年以降にすべて解体され、清算・譲渡された。
1929年に静岡県熱海の八百屋として、和田良平・カツ夫妻が創業。のちに長男の和田一夫がヤオハン社長に就任し、世界15か国で店舗を運営する小売・流通チェーンに育て上げた[2][3]。最盛期の売上はグループ全体で年間5,000億円程度であった。
1995年には中国・上海の浦東地区に大型百貨店「Nextage」を開業し、同店は百貨店としてはニューヨークのメイシーズに次ぐ世界第2位の店舗面積を誇っていた。
和田一夫はヤオハングループのコングロマリット化を目指して国内外での拡大路線を強引に推し進めたものの、店舗運営の標準化や効率化は遅れ、収益は低下していった[2]。そしてバブル崩壊により、日本国内の売上が低迷するとともに、国内外での投資にも失敗した[3]。
1996年には経営危機が表面化し、和田一夫の弟である和田晃昌が粉飾決算により逮捕されるという事件も起きた[2]。
翌1997年9月、グループ中核会社のヤオハン・ジャパンは1,613億円の負債を抱え、会社更生法の適用を申請して倒産した[3][4]。ヤオハンの倒産は、当時は「戦後流通業の最大の破綻」と言われた[1][注釈 1]。
ヤオハン・グループはメインバンクを持たず[1]、また銀行側がヤオハン・グループの粉飾決算を疑っていたこともあり、ヤオハン・グループと銀行の関係は良好なものではなかった[2]。このため、国内外での拡大路線の継続に際しては毎年のようにワラント債や転換社債を発行し、直接金融による大規模な資金調達を繰り返して企業規模を上回る負債を抱えたことが経営破綻の要因の一つとなった[1]。1996年の経営危機の表面化時に粉飾決算が行われていたことが判明し、銀行側の懸念が裏付けられた(前出)[2]。
人件費削減のため、週末や祝日の繁忙期以外は正社員を交代で休ませ、週休3日制を実現していた時期がある。また、中国・広東省で鰻の養殖を行う日盛産業との合弁により、日本国内で格安うな丼チェーン店「うな仙」を展開していた時期がある。養殖から加工までを中国で行うことにより、うな丼1杯を580円という低価格で販売していた。
和田カツは夫の死後、新宗教「生長の家」の熱心な信者となり、創業者夫妻の長男でありヤオハン社長として急速な業務拡大を行った和田一夫も熱心な信者となった。そのため同社では生長の家の教義を社是としていた。社是は「生命の実相哲学の正しい把握とたゆまざる実践を通して、全世界人類に貢献するための経営理念を確立する」。『生命の実相』とは生長の家教祖の谷口雅春の著書であり、生長の家の聖典とされる書物であると同時に、生長の家の教義の中心をなす概念である。
この社是は1965年、熱海の1店舗のみで営業していた当時に定められたもので、和田一夫は新店舗開店の際に「生長の家」の祈りを社員らと欠かさず行っていたと述べている[5]。
和田一夫は1951年に日本大学経済学部を卒業後、両親が熱海で始めた青果店「八百半商店」に入社[3]、1962年にヤオハンの前身となる食品スーパーの社長に就任[3]。1971年にはブラジルに出店して日本のスーパーマーケットでは初となる海外進出を果たし、中国や東南アジア、さらには欧米にも店舗網を拡大し、ヤオハンを国際的な流通グループに発展させた[3]。
経営破綻時のトップであった和田一夫は、倒産に伴いヤオハングループの全役職を辞任[3]。晩年は自らの失敗経験を基にして経営コンサルタント会社を立ち上げ、経営セミナーなどを行っていた[3]。2019年8月29日、老衰のため、死去した。90歳没。葬儀は同年9月21日、静岡県伊豆の国市の「JAハートフルメモリー韮山会館」で行われた[3]。
明治時代、貧しい農家の次男であった田島半次郎が始めた小田原の青果商「八百半」は、やがて小田原一の青果商となり、湯本・箱根・湯河原・熱海・伊東一帯で手広く青果卸を扱うようになった。
ヤオハンの店舗は静岡県内を中心に展開した。最盛期には57店舗を運営していた。
1997年、資金繰りの悪化に伴い、経営優良店を中心とする12店舗が大手スーパーダイエーの子会社セイフー(現・ダイエー)に売却された。なお、大型店であった富士吉田・櫛形・沼津・富士宮の4店は、食品SMであったセイフーは管理が出来ないため、同社が購入した上で、休眠会社であったが同年11月に社名変更した東海ダイエー(のちのグルメシティ関東→ダイエーに吸収)に移管された[10]。この4店は同年12月1日からダイエーの看板を掲げ営業を開始し、商品供給や運営指導はダイエー側が行った。なお現在は、買い戻して建て替えた沼津店(現・マックスバリュ沼津南店[11])を除き全て閉鎖されている。
1997年、ヤオハン・ジャパンが会社更生法の適用を申請、事実上倒産した後、さらに9店舗が閉鎖された。存続店舗はイオングループにより会社更生計画での営業が続けられた。更生計画が完了しマックスバリュ東海へ商号を変更した後、改装後のヤオハン店舗には「マックスバリュ」の屋号が付けられている。なお、商号変更後も一部店舗は「ヤオハン」の屋号を残していたが、2011年1月29日から既存店舗も順次「マックスバリュ」に変更され、同年2月19日までに「マックスバリュ」へ屋号が統一され、日本国内で「ヤオハン」の屋号は姿を消した。
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和田一夫は1960年代のスーパーマーケットの店舗展開合戦、いわゆる「スーパーマーケット戦争」を目の当たりにしたことから、大手スーパーマーケットがあまり力を入れない分野の隙間を独自分野として狙うべきだと考えた。それが海外展開であった。
海外展開最初期、当時ブラジルの経済成長が著しかったことなどから、1970年に視察を開始。当時は日系人が50万人から100万人在住しているとも言われ、日本に好意的で日系のスーパーの需要も見込まれていた。一夫はサンパウロへ視察に出掛け、現地のフランス系百貨店でサービスや態度の悪い店員を見たことから、現地の小売店のレベルがこの程度なら商機がありそうだと進出を決意した。
またブラジルでは生長の家が布教活動を展開していたという縁もあり、ブラジルには生長の家の伝道本部もあった[12]。そして日本のヤオハンには生長の家の信者も就職していた[12]。当時のヤオハンはまだ伊豆半島に10店舗程度を展開する零細スーパーで、それがブラジル進出するということで話題を呼んだという[12]。
1971年、海外進出第1号としてブラジルに現地法人を設立し、サンパウロ店を開店。銀行からの資金融資が得られず、海外経済協力基金から50万ドルの融資を受けたが、本来これは製造業の海外進出のための基金であり、流通業への融資は初のケースとなった[12]。
当時ブラジルへ赴任したヤオハン社員10人のうちの1人(生長の家信者)の証言によれば、開店資金の融資はどうにか受けたものの、社員に充てる資金が用意できなかったため、10人は全員永住権を取得して移民としてブラジルへ赴くこととなった[12]。その10人には会社から「決死の覚悟」が求められ「ヤオハンブラジル日の本隊」と命名、ブラジル赴任の条件として「ヤオハンブラジル成功の為の10箇条」を定め、これに従う者だけを赴任させるとした[12]。また開店にあたっては現地の生長の家信者の日系人からの全面的な協力も得られた[12]。
このように、現在では企業コンプライアンス上の問題となる条項ばかりであったが、それだけ腰掛けではなく本気でブラジルの店舗での業務に携わってもらうことを一夫は求めていたのであった。ブラジル展開当初は48家族が志願し、12家族がブラジルへ渡航した。1974年には4店舗まで増え、従業員も1500人を超えた。
しかしその後、ブラジルは年間1000%という世界最高のハイパーインフレに突入[12]、とても商売をするような状況ではなくなったため[12]、1980年3月には和議倒産により全店舗を閉店し、ヤオハンはブラジルから撤退した。赴任した社員らは日本へ帰国したが、この証言をした社員は帰国せず、撤退時にヤオハンを退職してアメリカの別の企業へ転職した末、ヤオハン・グループに復帰して一夫の秘書を務めた[12]。
1973年にタイガーバームで財を成した客家系の胡文虎(Aw Boon Hwe)と南海交易を設立し、翌1974年9月にシンガポール第1号店をオーチャードロードに出店。以後、タイ、マレーシアにも出店した。
シンガポール展開に関しては、ブラジル展開が好調であった頃、リー・クアンユー率いるシンガポール政府が野村證券を通じてシンガポール国内に日系流通企業を誘致して流通業の近代化を図ろうと、八百半に打診があったものであった。当時どのように見積もっても不採算の見込みであり、最初は社長の一夫を含めて役員一同も反対していたが、度重なる要請に「神様の意思というかヤオハンの使命」を感じた一夫によりシンガポール進出に至った。これは事前調査を行った結果、カントリーリスクが少なく外国の投資を迎え入れることを確認した上でのことであった。また、太平洋戦争で日本が東南アジアに迷惑を掛けた償いの一環という意味合いもあった。
シンガポールの店舗は当初の予想を覆し、1年足らずで黒字となった。土日営業、ブルジョワ階級のみを優遇するVIPカードの廃止、当時シンガポールにはなかったあんパンの導入などから、大盛況を誇った。シンガポール事業の盛況は、ひいては低迷していた日本事業の立て直しにも貢献した。
1994年には台湾へ進出、台湾桃園店を開店。経営破綻後に店舗は閉鎖され、現在は新光三越百貨店の店舗として営業している。
1984年に初出店。香港ヤオハンの第1号店は新界の沙田(サーティン)店であり、最終的には10店舗が営業していた。当地には1990年から1996年までグループ(国際流通グループ・ヤオハン)の本部が置かれ、同時期、グループ代表・和田一夫はPollock Path 山頂の豪邸に居住していた。
1990年当時、一夫は中国当局に財産を没収されることを覚悟して、中国本土への進出を夢見て、株式や借入金700億円を持って香港への移住を決意した。1989年に天安門事件が起こり、1997年に香港返還が控えていた政情不安定の状況にもかかわらず、一夫は中国共産党が香港を潰さない、中国には大きなビジネスチャンス、人脈を作る機会があるとして移住を決行した。李嘉誠との縁を作って香港のビジネスを学んだほか、政情不安定で株価が安くなっていた香港の企業を次々と買収した。
1997年の経営破綻の後、すべての店舗が閉鎖された。「ヤオハン国際有限公司」がヤオハンの名称の元に存続するが、経営はヤオハンとは無関係の地元資本による。マカオの「New Yaohanデパート(新八佰伴商場)」についても同様である。
店名は「八百伴(パーパイパン)」と称される。1992年、中国新技術創業公司(CVIC)との提携により、「北京賓特購買中心(北京八佰半百貨店)」を開業。これは、外資が中国の小売市場に参入した初めての例となった。1993年5月30日、試験的な出店として上海に「上海第一八百伴」を開業。1994年からは「上海八佰半スーパーマーケット」及び「上海八佰半モスバーガー」を展開した。1995年12月20日には同市浦東新区に巨大百貨店「Nextage Shanghai 新世紀商場(新世紀商厦)」を開店、初日には107万人の来客があり、この記録はギネスブックに掲載された。
中国及び、中国系住民のあいだでは「ヤオハン(八佰伴)」のブランド力が強い[13] ため、その名称が存続している場合が多い。しかしながら、それらのいずれでも創業者である和田一族やイオングループとの資本関係はない。上海の「上海第一八百伴」などがその例であり、所有・運営するのはヤオハンとは無関係な地元・中国資本である。
1984年、ヤオハンU.S.A.は日本の食料品や日本製品を中心に扱うショッピングセンターをカリフォルニア州トーランスに開店した。初年の売り上げは1300万ドルであった。その後、カリフォルニア州内に6店など全米に8店舗を追加開業し、1993年には年間売上げ約1億2600万ドルとなった。また、ニューヨーク・マンハッタンでは持ち帰り用の寿司店「大吉」を4店舗経営していた。
当時の背景として、カリフォルニアにおけるアジア系人口は1990年までの10年間に倍増して280万人になっており、ヤオハンU.S.Aでは「顧客のほぼ100%がアジア系住民」(ヤオハンU.S.A.)[14] であったという。
ヤオハン・グループの崩壊時に存在していた9店舗の全てが、「ミツワ・マーケットプレイス」として営業を継続している。これらはヤオハンの元社員が独立して買い取ったものだという[16]。
1993年、メトロバンクーバーの都市であるブリティッシュコロンビア州リッチモンドのアジア系ショッピングモールの集中するGolden Village地区に「ヤオハン・バンクーバー店」として開店した。人口の60%を中国系住民が占める同市において、同地区はバンクーバーの中華街に次ぐ「第2の中華街」とも呼ばれ、当店舗も中国志向が強かったといわれる。
現在はショッピングモール「ヤオハン・センター」として営業を継続しているが、経営するのは中華民国(台湾)のユニ・プレジデント(統一企業)グループである。キーテナントのスーパー部門はT&Tスーパーマーケットの1店舗「オーサカ・スーパーマーケット店」として運営されている。同社は当初アメリカの中華系スーパーマーケット、タワ・スーパーマーケットとユニ・プレジデント・エンタープライズ社(統一企業公司)の合弁であった。2009年7月にロブロー社に買収され、現在は同社の子会社として運営されている。
1993年、ロンドンのブレント区に141,000平方フィートの規模で出店[17]。出店当時はロンドンに約3万人の日本人が居住、その多くがヤオハンの4マイル以内に住むなど日本人の多いエリアだった[18]。寿司店のチェーンも運営していた。
ヤオハン破綻後はアジア資本の企業に売却され、オリエンタル・シティと名前を変え、運営が継続された。2006年にDevelopment Securitiesに売却、再開発のためにヤオハンから続いたショッピングセンターは2008年をもって閉鎖された[19]。オリエンタル・シティはロンドンにおけるアジアコミュニティの中心となっており、再開発の方針には中国総領事館がロンドン市長に対して、プロジェクトに対する「深い懸念」が表明され[20]、ブレント区によりその歴史を保持するために一部を極東と東洋の用途に限定するよう求められた。
再開発後はアパートが建てられたほか、スーパーマーケットのモリソンズとロイヤルチャイナグループ(皇朝集団)による32,000平方フィートのアジア系のフードコート「Bang Bang Oriental Foodhall(新東方城)」が出店[21]し、ヤオハンより規模は縮小されたもののショッピングセンターを形成している。