ヤマザキ マリ | |
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生誕 |
1967年4月20日(57歳) 東京都 |
国籍 | 日本 |
職業 | 漫画家、随筆家、画家 |
活動期間 | 1996年 - |
ジャンル | 漫画、エッセイ、絵画 |
代表作 |
『テルマエ・ロマエ』 『プリニウス』 |
受賞 |
マンガ大賞(2010年) 第14回手塚治虫文化賞短編賞 第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞 VOGUE JAPAN Women of the Year 2012 芸術選奨文部科学大臣新人賞(2016年) イタリアの星勲章コメンダトーレ章(2017年)[1][2] |
ヤマザキ マリ(1967年4月20日[3] - )は、日本の漫画家、随筆家、画家。東京造形大学客員教授。日本女子大学特別招聘教授。海外暮らしが長く、現在はイタリア在住[4]。スマイルカンパニー所属。既婚。
1967年(昭和42年)、東京都に生まれる。母親(神奈川県・鵠沼[5]出身)がヴィオラ奏者として札幌交響楽団に在籍していたことから、幼少期を北海道千歳市で過ごした。父は指揮者であったが生後まもなく死去した。数年後に母が再婚したため(のちに離婚)異父妹がおり、演奏やヴァイオリン教師としてのレッスンで家をあけがちだった母の留守を姉妹で待っていたという[6][7]。10歳ごろまでは母の意向でヴァイオリンを習っていた[8]。母方は代々カトリックで、自身も幼児洗礼を受けている[6]。
ミッションスクールに通っていた14歳の時、母親がヨーロッパ旅行を予定していたところ仕事が入り、代わりに旅行に行くかと勧められあまり深く考えもせず、1ヵ月ドイツとフランスを一人旅した(ドイツに母親の旧友の音楽家がいた)。しかし、フランスに着いた際、想像より暗く寒い風土にカルチャーショックを受けたり、母の友人が空港に迎えに来ず、別人(友人の叔父)が来たため探すのが大変だった等のエピソードがある。また、パリからドイツに移動する際に、老齢のイタリア人陶芸家に付き纏われ、旅の理由が芸術のためであることを話すと、「すべての道はローマに通ずる、イタリアを訪れないのはけしからん」と叱られる。なお、この時14歳という年齢もあり、家出を疑われている。
母から「学校をいったん辞めてイタリアに留学したら?」と勧められ、17歳で高校を中退。大学入学資格検定を取得後、上記のイタリア人陶芸家の招きで単身イタリアへ渡る。北イタリアの都市ヴィチェンツァの画塾を経て、フィレンツェの国立フィレンツェ・アカデミア美術学院に入学、美術史と油絵を学びながら11年間過ごした。
21歳の時に日本に一時帰国し、スキー旅行に向かう途中で交通事故に遭い、全身打撲で肺胞が潰れる重傷を負った。乗っていた母親の新車は大破した。本人曰く、事故後も意識は失わず救急隊員に喋り過ぎだと怒られるほどであったという[9]。
フィレンツェ在住時には、学生アパートの隣室の詩人(イタリア人)と交際、11年の同棲後に妊娠、それを機に詩人とは別れ、男児を出産してシングルマザーとなった[10]。フィレンツェにおける留学生活やキューバでの生活については本人のブログや自伝エッセイ「世界の果てでも漫画描き」に書かれており、漫画を描き始めたのも生活費を稼ぐためであった。
1996年(平成8年)、イタリア暮らしを綴ったエッセー漫画でデビュー。同時期イタリアから一時帰国し、北海道大学及び札幌大学でイタリア語の講師を務める。並行して北海道札幌テレビ(STV)の番組『どさんこワイド』で旅行・温泉のレポーター、ラジオパーソナリティなども務めていた。
2002年(平成14年)、14歳での欧州一人旅で出会ったイタリア人陶芸家の孫(ベッピ・キュッパーニ、1980年にバッサーノ・デル・グラッパ生まれで、作家・文学研究者)と出会い、彼の留学先のエジプトのイタリア大使館で挙式し、結婚。シリアのダマスカスや北イタリアでの暮らしを経てポルトガルのリスボンに移住、7年間を過ごす。その後夫がシカゴ大学で比較文学を研究することになりシカゴに転居、2013年よりイタリアに戻りヴェネト州パドヴァ在住。
イタリアでの生活時に同居していた夫の家族の壮絶ぶりを、ギャグにして綴ったエッセイ漫画『モーレツ!イタリア家族』や、少女時代の自叙伝的内容の『ルミとマヤとその周辺』などを講談社の『Kiss』で連載。一方で、全く作風の違う古代ローマをモチーフにしたギャグ漫画『テルマエ・ロマエ』を『コミックビーム』などにも掲載している。これは夫キュッパーニが「ローマ皇帝の名前を全員言えるほどの古代ローマおたく」で、日常会話でも古代ローマの話題が当たり前のように出ることに影響されたという[3]。
2008年より連載を開始した『テルマエ・ロマエ』がヒット、2010年マンガ大賞受賞。授賞式の際には、Skypeでリスボンから受賞コメントを生中継で伝えた[11]。その他にも、2010年第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞、2013年仏アングレーム国際漫画祭ノミネート[12]、2013年米アイズナー賞アジア部門ノミネート[13]。2012年(平成24年)には日本で映画化された。
2016年『スティーブ・ジョブズ』などの作品により、芸術選奨文部科学大臣新人賞(メディア芸術部門)受賞[14]。
2017年、長年イタリアに在住し、芸術家としてイタリアの文化やイメージの普及に貢献した人物としてイタリアの星勲章コメンダトーレ章を受章した。日本人の漫画家としては初の受章となる[1][15]。
ヤマザキの代理人を務めた弁護士の四宮隆史が設立したクリエイターエージェント会社・CRGとエージェント契約を結んでいたが、2021年よりスマイルカンパニーに移籍している。
2024年2月、『テルマエ・ロマエ』の続編となる、還暦間近のルシウスを主人公とした『続 テルマエ・ロマエ』の連載(不定期)を集英社の少年ジャンプ+にて開始。
2024年4月、『プリニウス』 (とり・みきとの共作)が、第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞[16]。ヤマザキにとっては2010年度の『テルマエ・ロマエ』に続き、2度目の手塚治虫文化賞の受賞。
2013年(平成25年)2月23日にTBS系で放送されたバラエティ番組『ジョブチューン アノ職業のヒミツぶっちゃけます!』で、58億円の興行収入をあげた映画版『テルマエ・ロマエ』の原作使用料が出版社から言い渡された100万円のみであったと発言し、二次著作物に対する不当に安い金額であるとして波紋を呼んだ[17]。
『コミックビーム』2013年10月号から『テルマエ・ロマエ』の番外編が掲載予定であったが延期となり、体調不良などを理由にしたお詫びのイラストが掲載された。10月号では『テルマエ・ロマエ』の特別付録として「お詫び手ぬぐい」がつけられたが、これに関して「何も聞いていない」と発売日である2013年9月12日にTwitterで発言した[18]。翌9月13日付でコミックビーム編集部から、作者に無断で配布した事実はないとコメントが発表されたが[19]、弁護士は「企画として知っていたとしても、企画意図の説明は受けておらず、承諾もしていない」状態であったとしている[18]。
子供のころから無類の昆虫好き。5歳の時、初めて自分で買った本は小学館の昆虫図鑑。2015年に放送されたNHKの番組「課外授業 ようこそ先輩」でのテーマは“虫の目で世界を見たら”だった。
シンガーソングライターの山下達郎・竹内まりや夫妻とも交友関係を持つ。竹内がデビュー40周年を迎えた際には竹内をモデルにしたキャラクター「まりやちゃん」のデザインを書き下ろし、「Che Vuole Questa Musica Stasera 〜ガラスの部屋」のカバーではイタリア語指導をおこなっている[20]。山下から「あなたは本来画家なのだから」と依頼を受けて描き下ろした肖像画は、2022年6月22日リリースのアルバム『SOFTLY』のジャケットに採用された[21]。肖像画のタッチはヤマザキが敬愛する画家アントネロ・ダ・メッシーナを意識し、2カ月を要したものである[22]。
他 多数