ヤマハ・YA-1(ワイエー-ワン)は、日本楽器製造(現・ヤマハ)が開発・製造・発売したオートバイである。
オートバイ事業部を分社化(後のヤマハ発動機)する直前の日本楽器製造が、最初にオートバイの製造に乗り出して発売したオートバイであり、ヤマハ発動機のオートバイのルーツである。排気量は125cc、最高出力5.6馬力、最大トルク0.96kgm。愛称は赤トンボ。
その設計は、ドイツ・DKW(デーカーヴェー)社が開発した小型オートバイの代表的モデル・RT125[1]に範をとった、同時代に多く見られた設計の一つであるが[2]、スタイリングにはGKデザイングループが関与している[3]。1954年10月に発表。翌1955年1月より生産開始、2月発売。
まだ黎明期であった日本のモータースポーツにおいて活躍を残しており、発売された1955年7月10日の第3回富士登山レースではウルトラライト級の優勝を果たす。これはヤマハ発動機創立から10日目のことであった。さらに3ヵ月後、第1回浅間火山レースでは125ccクラスにおいて1位から4位までを独占するという成果を収めた。これにより、楽器メーカーとしてのイメージしかなかった「ヤマハ」の名を、モーターサイクルファンの間にも定着させるきっかけを作った。
- ^ 1939年発売。ヘルマン・ウェーバー(Hermann_Weber)らのDKW社内技術者が開発した、第二次大戦前DKW最後の民生用オートバイ。2ストローク単気筒エンジン搭載の、軽量で機動性の高い小型バイクで、第二次世界大戦中にはドイツ軍の連絡用バイクにも使われ、戦後は西ドイツのDKWで1958年まで、東ドイツでDKW系工場を引き継いだMZで1965年まで生産が続いた。性能の優秀さから、ロイヤルエンフィールド、BSA、ハーレーダビッドソンなどの西側著名メーカーでもコピー製品が作られ、ソ連や東ヨーロッパでもコピー品や東ドイツからのライセンス生産品が1950年代まで広く生産されるなどで、類似車は世界中で膨大な生産台数に達した。Wikipediaドイツ語版によれば、ドイツ本国での生産台数45万台、コピー品は500万台以上生産されたと推定されている。
- ^ ヤマハ発動機、「YA-1」開発ストーリー
- ^ http://www.gk-design.co.jp/ja/gk_group/projects/data/550010_YA-1.html
|
---|
50 cc | | |
---|
51 - 125 cc | |
---|
126 - 250 cc | |
---|
251 - 400 cc | |
---|
401 - 600 cc | |
---|
601 - 1000 cc | |
---|
1001 cc - | |
---|
電動スクーター | |
---|
競技車両 | |
---|
電動競技車両 | |
---|
カテゴリ |