ユスリル・イザ・マヘンドラ Yusril Ihza Mahendra | |
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生年月日 | 1956年2月5日(68歳) |
出生地 | インドネシア、南スマトラ州、東ブリトゥン県 |
出身校 |
インドネシア大学 パンジャーブ大学 マレーシアサインズ大学 |
現職 | 政治家、弁護士、学者 |
所属政党 | 月星党 |
配偶者 | リカ・トレンティノ・カト |
子女 | 6人 |
親族 |
イドリス・ハジ・ザイナル(父) ノルシハ(母) |
在任期間 |
2024年10月21日 - 1999年10月29日 - 2001年2月7日 2001年8月9日 - 2004年10月20日 |
大統領 |
プラボウォ・スビアント アブドゥルラフマン・ワヒド メガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ |
在任期間 | 2004年10月21日 - 2007年5月8日 |
大統領 | スシロ・バンバン・ユドヨノ |
在任期間 |
1998年 - 2005年5月1日 2015年4月26日 - 2024年5月18日 |
ユスリル・イザ・マヘンドラ(インドネシア語: Yusril Ihza Mahendra, 1956年2月5日 - )は、インドネシアの政治家、弁護士、学者。同国法務人権調整大臣。第14代国家官房長官、月星党総裁を務めた。
1956年2月5日にインドネシア、バンカ・ブリトゥン州、東ブリトゥン県にてイドリス・ハジ・ザイナルとノルシハの息子として誕生する。ユスリルの家族の祖先は、ジョホール州と西スマトラ州に遡る。父方の祖父、ハジ・タイブはジョホール王族の一員であり、19世紀にジョホールからブリトゥン島に移住したと思われる。ユスリルの母親は、ブリトゥン島のミナンカバウ人の3代目の子孫であった。
ユスリルは哲学、宗教、法学、芸術、文学を学んだ一族のマレー系知識人の伝統を引き継いだ。高校卒業後、1976年にブリトゥン島を離れジャカルタに移住した。インドネシア大学に通い、講師であったイスマイル・スニ教授やオスマン・ラリビ教授と親しくなった。
特にラリビは、1950年代にインドネシア制憲議会の議員を務めていた。ラリビはユスリルに、モハマッド・ナシールを紹介する。ナシールはイスラム主義の政治家で、インドネシアの元首相であり、1950年代にインドネシア共産党と肩を並べていた主要なイスラム政党であるマシュミの議長であった。インドネシア大学在任中、ユスリルはジャカルタの様々なモスクに下宿して生活し、学資を得るためにアルバイトもした。子供たちにクルアーンの読み方を教えたり、武道を教えたり、魚やココナッツを売ったりした[1]。
1982年、ユスリルは哲学の学士号を取得し、翌年には統治学の学士号を取得した。その後、ジャカルタのムハマディヤ大学と法務省の社会化技能アカデミーで講師を務めた。その間、ユスリルは大学院に通った。その後、パキスタンのパンジャーブ大学に進学。1984年、ユスリルは人文社会科学の修士号を取得して卒業した。
インドネシアに戻ると、ユスリルはインドネシア大学とムハマディヤ大学の講師となった。インドネシア大学では法学部に所属し、大学院で教鞭をとる。1993年、マレーシアサインズ大学を卒業し、哲学博士となる。ユスリルは組織活動にも参加するようになった。
1981年から1982年まで、ユスリルはインドネシアの青年モスク通信組織の副会長を務めた。ユスリルのイスラム主義的な見解は、ユスリルの活動範囲を学問の世界だけに限定しないことを意味した。1996年、ユスリルはインドネシア・イスラム・ダアワ評議会の中央委員となった。同時に、インドネシア・インテリ・ムスリム連合専門家評議会の副議長を務めながら、ジャカルタ支部の法務部会長に就任した。
1996年、スピーチライターとしてスハルト大統領に雇われる。ユスリルはスハルトのために204の演説を執筆することになる。1998年3月にスハルトが大統領に再選されると、国務長官補佐官に任命された。この立場から、スハルト大統領の任期最後の瞬間に深く関わった。スハルトが辞任した際、ユスリルは辞任演説の起草に携わり、演説が法的に正確なものとなるよう意見を述べた[2]。
重要な局面で、ユスリルは演説をめぐってスハルトと意見の相違が生じた。スハルトは内閣の解散を宣言しようとしたが、ユスリルは内閣は次の大統領のリーダーシップのもとで存続するので解散しないと主張した。そしてスハルトは自ら必要な編集を行った。すべてが決まると、ユスリルはアミン・ライスに会いに行き、スハルトが辞任することを伝えた。1998年5月21日の朝、スハルトは辞任を表明した。
政治的目標を達成するため、ユスリルは1998年7月17日に月星党を結成し、初代党首に選出された。1999年6月、月星党は1999年の立法院選挙に参加し、2.84%の得票率で6位となった。国民協議会総会に向けて、月星党は他のムスリム政党と手を組み、中央枢軸を結成した。
1999年に総会が開催されると、中央枢軸は民族覚醒党のアブドゥルラフマン・ワヒドを支持し、ゴルカルのユスフ・ハビビ大統領と闘争民主党のメガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリを対立候補とした。ハビビの説明責任演説が受け入れられなかったために出馬を拒否し、大統領選はワヒドとメガワティに絞られた。ユスリルは、ワヒドも落選することを懸念してか、自らも大統領候補に指名した[3]。
しかし、ユスリルは選挙まで時間がない中で落選し、ワヒドが大統領に就任した。ワヒドが新内閣を発足させた際、ユスリルは法務・立法大臣に任命された。ワヒド大統領の任期中、ワヒドがマルクス・レーニン主義を解禁するという案を提起した際、ユスリルは大きな意見の相違があった。これに対してユスリルは、役職を辞任すると宣言し[4]、月星党によって広く支持された。とはいえ、ワヒドの案は実現することはなく、意見の相違にもかかわらず、ユスリルは大臣に留任した。
2001年初頭、政治的圧力によってワヒドが守勢に立たされ始めると、ユスリルは閣議でワヒドの辞任を示唆した。ワヒドの返答はユスリルを内閣から排除することだった。内閣を離れたユスリルと月星党は、特別委員会を通じてワヒドを弾劾することを計画する他のすべての政党に肩入れした。
2001年7月、国会は全会一致でワヒドを弾劾し、メガワティを大統領に選出した。メガワティ内閣では、ユスリルが法務人権大臣に任命された。法務人権大臣として、ユスリルは2002年のバリ島爆弾テロ事件後の反テロリズム法案に取り組んだ。また、インドネシアの裁判官の質の向上にも努めた[5]。
2004年が近づくにつれ、ユスリルの名前が大統領候補として浮上し始めた。ユスリルは、月星党が立法院選挙でトップ3に入ることを条件に、出馬する用意があると述べた。月星党はこれを果たせず、立法院選挙での得票率はわずか2%にとどまった。
ユスリルは最終的に、大統領選と副大統領選でスシロ・バンバン・ユドヨノとモハマッド・ユスフ・カラを支持することを決めた。ユスリルはその支持に対して国務長官の地位を与えられた。2005年、ユスリルは月星党総裁の座をマラム・サンバット・カバンに奪われたが、月星党諮問委員会の委員長に就任した。その後、2015年4月26日に同職に再選された[6]。2007年5月7日、ユスリルはハッタ・ラジャサに国務長官の座を明け渡した。
2024年10月21日、スプラトマン・アンディ・アグタスが務めていた法務人権大臣がプラボウォ・スビアントによって調整大臣に改められ、その後任という形で就任した。