ヨーゼフ・メルク Joseph Merk | |
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ヨーゼフ・メルク (1829年) | |
基本情報 | |
生誕 | 1795年1月18日 |
出身地 | ウィーン |
死没 | 1852年6月16日(57歳没) |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 作曲家、チェロ奏者 |
担当楽器 | チェロ |
ヨーゼフ・メルク (Joseph Merk, 1795年1月18日 - 1852年6月16日) は、ウィーン出身のチェリストである。ウィーン宮廷歌劇場で首席チェロ奏者を務め、ウィーン音楽院で教鞭をとった。
1795年1月18日、商人の息子としてウィーンに生まれる[1][2][3]。歌、ギター、ヴァイオリンを学んだのちにヴァイオリニストとして活躍していたものの[4]、一家の別荘で休暇を過ごしていた際に左腕を犬に噛まれ、ヴァイオリンの演奏に必要な高さまで腕を上げることができなくなったため、チェロに転向して帝国楽団のフィリップ・シントレッカーに師事した[1][2][5]。なお、この時の怪我の影響で一生、左腕が右腕より短かいままとなった[2]。
チェリストになって1年で、ハンガリーの貴族のもとで弦楽四重奏団の一員として演奏するようになり、まもなくオーストリア、ハンガリー、セルビアへの演奏旅行を行って成功を収めた[1]。1816年にはウィーン宮廷歌劇場の首席チェリストとなり、1834年には28歳にして皇帝より「宮廷名演奏家」の称号を与えられた[1][6][7]。なお、ウィーン宮廷歌劇場ではヨーゼフ・リンケと同じプルトで演奏した[8][9]。また、「宮廷名演奏家」の称号は当時、ニコロ・パガニーニ、ジギスモント・タールベルク、ヴァイオリニストのヨーゼフ・マイゼーダー、ジュディッタ・パスタ、ジェニー・ラッツァー、メルクにしか授与されていなかった[10]。
また、1822年からはアントン・クラフトの後を継いでウィーン音楽院で教鞭を取りつつ、公務の間を縫ってプラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ブラウンシュヴァイク、ハノーヴァー、ハンブルク、ロンドンへの演奏旅行を行った[6][2]。さらに1825年にはヴァイオリニストのヨーゼフ・マイゼーダーと知り合い、1830年にはピアニストのピアニストのK. ボックレットを交え、1808年の初演以来演奏されていなかったベートーヴェンの『ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲』を再演して喝采をあびた[6][11]。また、チェリストのニコラウス・クラフトの紹介でベルンハルト・ロンベルクと親交を深め、ロンベルクの作品をたびたび演奏した[12][2]。
1836年に最後の演奏旅行を行い、1848年に音楽院を引退した[13]。1852年6月16日にウィーンで死去[14][15]。
同時代のドイツのチェリストであるベルンハルト・ロンベルクやフリードリヒ・ドッツァウアーがスラー・スタッカートを嫌ったのに対し、メルクはしばしば自身の作品に取り入れている[16]。なお、チェリストのヴァレリー・ウォルデンは、この違いは弓の持ち方の違いに起因すると分析している[16]。しかしウォルデンは同時に、ニコラウス・クラフト、ボーラー兄弟、リンドレー父子およびメルクのフィンガリングには、ロンベルクやジャン=ルイ・デュポールの影響が見られるとも述べている[17]。
また、19世紀になるにつれ、より長く、連続するスラーを利用する作品が多く見られるようになったが、メルク自身も『シューベルトの人気ワルツによる序奏と変奏』においてアルペジオにスラーがけをして、その中でアクセントをつけている[18][19]。
1825年、マイゼーダーとメルクが組んでいた弦楽四重奏団は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンから『弦楽四重奏曲第12番』の演奏依頼を受けた[2]。特に甥のカール・ヴァン・ベートーヴェンはメルクを高く評価しており、ヨーゼフ・リンケに比べてメルクの方が優れているとルートヴィヒに書き送っている[20][21]。また、ルートヴィヒもメルクが出演するコンサートについて自身の会話張に書き記した[22]。なお、ベートーヴェンの葬儀の際、メルクは棺のそばで松明を掲げた[23]。
また、メルクは作曲家のフランツ・シューベルトと親交を結んでいた[14]。1822年4月15日、ウィーンのミリノーテン広場にある会議所のホールで開催されたメルクの演奏会に際し、シューベルトはチェロ演奏の合間の曲として男声四重奏曲『精神と愛』を作曲している[14]。なお、この曲はバルト、ティーツェ、ネエブゼ、ヨーハン・ネストロイによって歌われた[14]。
さらに、フレデリック・ショパンは2度目のウィーン滞在中にメルクと知り合い、1829年にチェロとピアノのための『序奏と華麗なるポロネーズ』を作曲し、メルクに献呈した[14][24][25][26]。ただ、作曲家自身はこの曲について「サロンやご婦人たちのための、キラキラ輝く子供だまし以上のものではない」と述べている[14]。なお、ショパンはサロンでメルクと共演することもあり、「ウィーンで1番のチェリスト」などの賛辞を手紙に記したほか、ヴァイオリニストのスラヴィックを交えてピアノトリオを結成したいとも述べた[27][28][29][30]。
また、作曲家・ピアニストのフランツ・リストは、ヴァイオリニストのヨーゼフ・マイゼーダー、およびメルクとともにベートーヴェンの『ピアノ三重奏曲第7番「大公」』を演奏した[31]。なお、リストは演奏会デビューをする前からマイゼーダーやメルクに演奏を聴いてもらっていた[32]。
ウィーン音楽院で教鞭をとった[6]。弟子にアントン・トレーク、カール・レオポルド・ベーム、H. レーヴェル、ヨーゼフ・M・マルクス、ジャック・フランコ=メンデス、クリスチャン・ケラーマンらがいる[14][33][34][35][36]。
協奏曲とコンチェルティーノをそれぞれ一曲ずつ作曲した[6]。また、ポロネーズや変奏曲はかつて盛んに演奏されたが、次第に演奏されなくなった[6]。また、『20の練習曲』作品11、『6つの練習曲』作品20はフランツ・シューベルトに捧げられた[6][14][37]。
他にも、当時流行していた、オペラの旋律を取り入れた器楽曲をいくつか作曲している[38]。
エドゥアルト・ハンスリックはメルクについて「熱心に演奏会を開き、疲れを知らず、たえず聴衆の共感を呼びおこした」と評している[6]。また、ウィーンの上流サロンで人気のあったヴァイオリニストであり、ベートーヴェンからも評価された友人のヨーゼフ・マイゼーダーになぞらえて、メルクは「チェロのマイゼーダー」とも呼ばれた[6]。
なお、1826年のプラハ発の記事では、以下のように記されている[20]。
このアーティストはあらゆる面で優れているが、魅惑的な音、最大限の明瞭さと正確さ、そして個性豊かな弾き方を備えているので、批評家たちは彼を偉大なるロンベルクと比べたくてうずうずした。しかしながらロンベルクはこの若い同業の芸術家とは異なる、独自の表現法をもっているので、比較するどころか、この2人の天才音楽家が同じ楽器をこれほどまでに違う扱いをし、それでいて2人とも卓越しているのを目撃するのは、大きな驚きである。だから彼を第2のロンベルクとは呼ばずに、第1のメルクと呼ぼうではないか
また、イングランドの旅行家エドワード・ホルムズは以下のように述べている[21]。
メルクのヴィオロンチェロ演奏は、アーティキュレーションの処理が、望ましいレベルより弱かった。彼はいい感性を持ち、音程が正確で、メッセージも明瞭であったが、力強さに欠けた。私はメルクの演奏に大いに満足したし、我が国のリンドレー以外のすべての奏者より高く評価するべきだと思う。しかし強さと指の圧力に欠けることは彼の最大の欠点である。メルクの腕前は、主として弦上の弓の動き、繊細な趣味、そしてこの楽器の親指音域における正確な音程に表れていた。おそらくウィーンのアーティストたちの間ではわれ先に難技巧に挑戦する風潮があり、芸術について考えるのに使われるべきエネルギーの一部がこの野望に吸い取られてしまっているのだろう