リチャード・クロウシェイ(Richard Crawshay、1739年 – 1810年6月27日)は、イギリスの製鉄業者。
1799年時点のグレートブリテン王国における百万長者(100万ポンド以上の財産を所有する人物)の1人であり、200万ポンド(2023年時点の2.48億ポンドと同等[1])を所有した[2]。1810年に死去した後、遺産相続にあたり計算された遺産の価値が150万ポンドに上る[3]。
ウィリアム・クロウシェイ(William Crawshay、1713年 – 1766年)と妻エリザベス(1714年 – 1774年、旧姓ニコルソン)の長男として、1739年にノーマントンで生まれた[3]。妹が3人いる[3]。16歳のときにロンドンに向かい、テムズ・ストリートの金物商ビックルウィス(Bicklewith)の見習いになった[3]。ビックルウィスのもとでたちまち頭角を現し、1763年にはビックルウィスの事業を買収した[3]。
1760年代から1770年代にかけて鋳鉄製品、鉄製品商として財を成し、アッパー・テムズ・ストリートに邸宅ジョージ・ヤード(George Yard)を構えた[3]。1780年代にはロンドンの金物商として主導的立場を持つに至ったが、この時期までは仕入れを主にバルト海経由の輸入に頼っていた[3]。またアメリカ独立戦争ではシファースファ製鉄所を所有する実業家アンソニー・ベーコンと協業して軍需局に大砲を提供し、1786年にベーコンが死去すると、その遺産のうち製鉄所を含むシファースファを租借した[3]。クロウシェイはヘンリー・コートによる攪拌精錬法の発明を援助したほか、1793年までにシファースファ製鉄所の規模拡大に5万ポンド投資して、1796年には1年間で7,204トンの銑鉄を鋳造した[3]。シファースファ製鉄所は全ヨーロッパの工業家から注目され、クロウシェイには「鉄の王モレク」(Moloch the Iron King)のあだ名がついた[3]。シファースファに近いマーサー・ティドビル周辺の製鉄業者との関係は悪かったが、製鉄業の保護に力を入れ、1797年に鉄の課税案への反対運動に参加した[3]。
製鉄以外では南ウェールズの運河、道路の建設にも貢献した[3]。敬虔なイングランド国教会信者だった[3]。
1810年6月27日に死去、ランダフ大聖堂に埋葬された[3]。死後、製鉄所が息子ウィリアム、娘婿ベンジャミン・ホール、妹の息子ジョセフ・ベイリーの間で分割相続された[3]。
裕福でない出身から長者番付(1799年)6位まで成り上がった[2]という一生はサミュエル・スマイルズの『工学者列伝』(Lives of the Engineers、1862年)に収録された[3]。
1763年6月13日、メアリー・ボーン(Mary Bourne、1745年 – 1811年)と結婚して、1男3女をもうけた[3]。