リットン伯爵 Earl of Lytton
紋章記述
Arms :Quarterly: 1st and 4th, Ermine on a Chief dancettée Azure two Ducal Coronets Or a Canton Argent charged with a Rose Gules (Lytton); 2nd and 3rd, Gules on a Chevron Argent between three Eaglets regardant Or as many Cinquefoils Sable (Bulwer) Crests :1st: A Griffin's Head erased Ermine eared and maned Or; 2nd: A Bittern in flags all proper; 3rd: An Eagle regardant Argent holding in the beak a Branch of Laurel Vert Supporters :On either side an Angel proper each holding in the exterior hand an Eastern Crown Or
創設時期 1880年 4月28日 創設者 ヴィクトリア 貴族 連合王国貴族 初代 2代男爵ロバート・ブルワー=リットン 現所有者 5代伯ジョン・リットン (英語版 ) 相続人 ネブワース子爵フィリップ・リットン 付随称号 下記 を参照。現況 存続 邸宅 ニュービルディング・プレイス 旧邸宅 ネブワース・ハウス モットー これが勇者の務め (Hoc Virtutis Opus)
リットン伯爵 (英 : Earl of Lytton )はイギリス の伯爵 、貴族。連合王国貴族爵位 。インド総督 を務めた政治家・外交官の第2代リットン男爵ロバート・ブルワー=リットン が1880年に叙位されたことに始まる。
本項においては、伯位の前身となったリットン男爵 に関しても触れる。
初代男爵E.ブルワー=リットン (ヘンリー・ウィリアム・ピッカーズギル 画)
初代リットン伯爵ロバート・ブルワー=リットン (トマス・アナン 撮影)
伯爵家の旧邸宅ネブワース・ハウス
その祖エドワード・ブルワー=リットン (1803-1873) は、代表作『ポンペイ最後の日 』を著した小説家にして、第14代ダービー伯爵 エドワード・スミス=スタンリー の第2次内閣 で植民地大臣 を務めた政治家である[ 1] 。彼は1838年 に(ネブワースの)準男爵 (Baronet, of Knebworth) を授けられたのち[ 2] [ 3] 、1866年 にはハートフォード州ネブワースのリットン男爵 (Baron Lytton, of Knebworth in the County of Hertford) に叙された[ 1] [ 2] [ 4] 。なお、彼の出生時の姓は「ブルワー」であったが、1844年 2月20日 に勅許を得て、母方の姓を加えた「ブルワー=リットン」に変更している[ 2] [ 5] 。
その子である2代男爵ロバート (1831-1891) は詩人や外交官として活動した[ 2] 。彼は襲爵後の1876年 にインドの総督 (副王 )に任命された[ 2] [ 6] 。その副王在職中[ 註釈 1] に、バーラクザイ朝 アフガニスタン へ送った英使節が拒絶されたことがきっかけで第2次アフガン戦争 が勃発した[ 8] 。イギリス側は当初の目論見に反して苦戦し、首相 のベンジャミン・ディズレーリ は総選挙に敗れて退陣、2代男爵も副王を1880年に辞職した[ 8] [ 9] 。彼は同年にリットン伯爵 (Earl of Lytton) に昇叙するとともに、ハートフォード州ネブワースのネブワース子爵 (Viscount Knebworth, of Knebworth in the County of Hertford) を授けられた[ 2] [ 6] [ 8] [ 10] 。ロバートはその後、在フランスイギリス大使 となり、赴任先のパリ で死去した[ 8] 。爵位は長男のヴィクターが継承した[ 2] [ 6] 。
2代伯ヴィクター は父同様に政治家で、1920年 からインド省政務次官 (英語版 ) を、1922年 からベンガル州知事 (英語版 ) を務めたほか、1925年 には短期間ながらインド副王となった[ 6] 。また、1930年代 初めにリットン調査団 の団長として満州事変 の調査を行なった[ 6] [ 11] 。2代伯の男子はともに早世したため、伯位は弟のネヴィルが相続した[ 6] [ 12] 。一方、伯爵家邸宅のネブワース・ハウス は娘が相続して、その後はコボールド男爵家 に渡った。
3代伯ネヴィル (1879-1951) は画家であり、イギリスやフランスで肖像画や風景画を発表した[ 6] [ 13] 。また1908年ロンドンオリンピック のジュ・ド・ポーム競技 に参加、銅メダルを獲得した[ 13] 。
4代伯ノエル(1900-1985) は1951年に父親からリットン伯爵位を、1957年には母ジュディス (英語版 ) [ 註釈 2] からウェントワース男爵 (英語版 ) 及びル・ディスペンサー男爵 位をそれぞれ相続した[ 6] 。また、彼は1925年にその家名を「リットン=ミルバンク」に改めたが[ 15] 、後の1951年に「ミルバンク」を取り除いている[ 16] [ 17] 。
その子である5代伯ジョン(1950-) が2020年現在のリットン伯爵家現当主である。
現当主である第5代リットン伯爵ジョン・リットン (英語版 ) は、以下の爵位を有する[ 6] 。
第5代リットン伯爵 (5th Earl of Lytton) (1880年 4月28日 の勅許状による連合王国貴族 爵位)
第5代ハートフォード州ネブワースのネブワース子爵 (5th Viscount Knebworth, of Knebworth in the County of Hertford) (1880年4月28日の勅許状による連合王国貴族爵位)
第22代ル・ディスペンサー男爵 (22nd Baron le Despencer) (1387年 12月17日 の議会招集令状によるイングランド貴族 爵位)
第18代ウェントワース男爵 (英語版 ) (18th Baron Wentworth) (1529年 12月2日 の議会召集令状によるイングランド貴族爵位)
第6代ハートフォード州ネブワースのリットン男爵 (6th Baron Lytton, of Knebworth in the County of Hertford) (1866年 7月14日 の勅許状による連合王国貴族爵位)
第6代(ネブワースの)準男爵 (6th Baronet, styled "of Knebworth") (1838年 7月18日 の勅許状による連合王国準男爵位)
第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン
^ 彼の副王在職中には第二次アフガン戦争のほか、大飢饉 が発生したが、これが天災か人災かは論争の対象となっている[ 7]
^ ジュディスは第16代ウェントワース女男爵であり、第15代ウェントワース女男爵アン・キング (英語版 ) をその母に持つ[ 14] 。
^ a b Stephen, Leslie (1893). "Lytton, Edward George Earle Lytton Bulwer-" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 34. London: Smith, Elder & Co . p. 380-387.
^ a b c d e f g Arthur G.M. Hesilrige. “Debrett's peerage, and titles of courtesy, in which is included full information respecting the collateral branches of Peers, Privy Councillors, Lords of Session, etc : Free Download, Borrow, and Streaming ” (英語). Internet Archive . p. 597. 2020年7月12日 閲覧。
^ "No. 19631" . The London Gazette (英語). 3 July 1838. p. 1488. 2020年7月12日閲覧 。
^ "No. 23137" . The London Gazette (英語). 13 July 1866. p. 3984. 2020年7月12日閲覧 。
^ "No. 20318" . The London Gazette (英語). 20 February 1844. p. 580. 2020年7月12日閲覧 。
^ a b c d e f g h i “Lytton, Earl of (UK, 1880) ”. www.cracroftspeerage.co.uk . 2020年7月12日 閲覧。
^ Powell, Christopher (2011-06-15) (英語). Barbaric Civilization: A Critical Sociology of Genocide . McGill-Queen's Press - MQUP. pp. 238–245. ISBN 9780773585560 . https://books.google.com/books?id=v3Qm4pWlVNsC&pg=PA238&lpg=PA238&dq=1876+famine,+genocide&source=bl&ots=h2HC2vNegz&sig=8kkn3xtaWT6DdLTMwfQfL0q2GN0&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwinwPvj3pzaAhUHq1kKHU7dBkA4ChDoAQg5MAQ#v=onepage&q=1876%20famine,%20genocide&f=false
^ a b c d Garnett, Richard (1893). "Lytton, Edward Robert Bulwer" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 34. London: Smith, Elder & Co . p. 387-392.
^ ブレイク男爵 著、谷福丸 訳、灘尾弘吉 監修 編『ディズレイリ』大蔵省印刷局 、1993年(平成5年)、825頁。ISBN 978-4172820000 。
^ "No. 24838" . The London Gazette (英語). 27 April 1880. p. 2725. 2020年7月12日閲覧 。
^ 黄, 自進. “満洲事変をめぐる列強の態度と国際公議の醸成 ” (pdf). 立命館大学 . p. 12. 2020年7月13日 閲覧。
^ “Obituary: Lord Lytton”. The Times (The Times Digital Archive): p. 6. (27 October 1947)
^ a b Mosley, Charles, ed (2003). Burke's Peerage, Baronetage & Knighthood . 2 (107 ed.). Burke's Peerage & Gentry. p. 2441. ISBN 0-9711966-2-1
^ “Wentworth, Baron (E, 1529) ”. www.cracroftspeerage.co.uk . 2020年7月12日 閲覧。
^ "No. 33026" . The London Gazette (英語). 3 March 1925. p. 1572. 2020年7月13日閲覧 。
^ “Lady Anne Lytton”. The Times (The Times Digital Archive): p. 16. (28 June 1979)
^ “Supplement No.39225 ”. London Gazette. p. 2669 (11 May 1951). 2020年7月13日 閲覧。
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