リーニュ家 Maison de Ligne | |
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![]() リーニュ家の紋章 | |
当主称号 | リーニュ公爵 |
創設 | 11世紀 |
現当主 | ミシェル・ド・リーニュ |
分家 | アーレンベルク家 |
著名な人物 | シャルル・ジョゼフ |
リーニュ家(Maison de Ligne)は、ベルギーの上級貴族の家系。家名はエノー州アト郊外の小村リーニュにちなむ。
11世紀にリーニュの小領主から身を起こした。リーニュ家の当主はエノー伯の廷臣となり、主君に随行して十字軍遠征にも何度か参加した。1214年、ゴーティエ・ド・リーニュ(Gautier de Ligne)とフラストル・ド・リーニュ(Flastre de Ligne)はブーヴィーヌの戦いでフランス王フィリップ2世の軍隊に捕えられ、身代金を払って解放されている[1]。12世紀に男爵位を獲得し、16世紀にはフォコンベルグ伯、17世紀にはエピネー公となった。
1547年にマルク伯家の傍系であるアーレンベルク家の男系が絶えたとき、リーニュ家の傍系であるバルバンソン男爵家のジャン・ド・リーニュが婿入りする形でアーレンベルク家を継いだ。このため、現在でもベルギーの最上級貴族であるリーニュ公家とアーレンベルク公爵家は、男系を同じくしている。
1543年、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世に、教皇使節として仕えていた当主ジャック・ド・リーニュは、帝国伯の称号を授けられた。ジャックの妻マリア・ファン・ヴァッセナール(Maria van Wassenaer)はライデン城伯家の女子相続人であり、ヴァッセナールやフォコンベルグ、フォールブルクなどの所領をリーニュ家にもたらした。
ジャックの孫息子ラモラル1世は、1601年に神聖ローマ帝国の帝国諸侯に陞爵したが、帝国諸侯としての実体は全く無かった。リーニュ家はネーデルラントを二分した八十年戦争のあいだ、他のワロン人名門貴族とともにカトリック陣営に残留し、ハプスブルク家に忠誠を誓い続けた。ラモラル1世の孫クロード=ラモラル1世は、シチリア副王およびミラノ総督として活躍した。第6代リーニュ公クロード=ラモラル2世は神聖ローマ皇帝軍の陸軍元帥を務めた。その息子の第7代リーニュ公シャルル・ジョゼフは軍人・外交官・文筆家であり、リーニュ家が輩出した最も有名な人物である。
1830年のベルギー独立革命の際、第8代リーニュ公ウジェーヌ1世は独立派の一派からベルギー王位に就くよう打診されたが、これを辞退した。リーニュ家は現在もベルギーの最上級貴族家門の1つであり、ベルギー王室の人々とも親称で呼び合うことを許される特権を有している。