ルイジ・ローランド(Luigi Rolando、1773年6月16日 - 1831年4月20日)はイタリアの解剖学者、生理学者。1773年にトリノで生まれた。トリノ大学の教授として脳の解剖学的の研究を行い、脳機能の局在を予測した。
ローランドは1773年、イタリア北西部サルデーニャ王国の都市トリノで生まれた[1]。若くして父を亡くし、牧師である おじ のアントニオ・マフェイ(Antonio Maffei)に育てられた[1]。地元の大学で最初哲学を学び、次に医学を学んだ。この時ローランドは特に解剖学と動物学に興味を覚えた。1793年に大学を卒業する。1802年、肺の比較解剖の研究で学位を取った。
フランス革命戦争の勃発にともない1799年、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世がサルデーニャ島へ退避する。退避した先でローランドをサッサリ大学(Università di Sassari)の臨床医学の教授として呼び寄せる。しかしローランドはリヴォルノで発生した黄熱病の流行のため、3年間フィレンツェで足止めを喰う。
1807年、ローランドはサルデーニャ島へ移り、1814年まで暮らす。1815年、ナポレオン戦争が終わり、ローランドはトリノに帰り解剖学の教授となる。女王の医者もつとめる。1829年12月、トリノの美術学院(Accademia di Belle Arti in Torino) の解剖学教授となる。
1831年4月、死去。死因は幽門(胃の出口)の癌であった[1]。
ローランド膠様質(脊髄の後角にある構造)とローランド溝(大脳の脳溝)は彼にちなんで名付けられた[1]。