ルイトポルト家(ドイツ語: Luitpoldinger, 英語: Luitpoldings)は、中世ドイツにおいてバイエルン大公を輩出した諸侯の家系である。ルイトポルディング家、アルヌルフィング家[1]ともいわれる。
同家の祖ルイトポルトは、東フランク王カールマンの側近であり[2]、893年には東フランク王アルヌルフによりバイエルン辺境伯とされ、バイエルン全域の統治を委託された[3]。さらにルイトポルトはアルヌルフの死後、その子幼王ルートヴィヒ4世と摂政となったが、907年にマジャール人との戦いにおいてプレスブルク(ブラチスラヴァ)近郊で戦死した[4]。
ルイトポルトの後は子のアルヌルフ(悪公)が相続したが、アルヌルフは教会高権も含めたバイエルンの自立的支配権を握って[5]みずから「大公」を名乗り[6]、母方の伯父にあたるシュヴァーベン大公エルハンガーおよびベルトルトの兄弟とともにコンラディン家出身の東フランク王コンラート1世(母の再婚相手)と対立し、一時ハンガリーに亡命するに至った[7]。917年に亡命から帰国したアルヌルフは、国王コンラート1世によりバイエルンに派遣されていた国王の弟エーバーハルトを追放し、さらに進軍してきたコンラート1世に傷を負わせ、退却させている[7]。国王コンラート1世はこの時の傷がもとで翌918年死去した。一説には翌年、アルヌルフは「バイエルン人と東フランケン人に切望されて王となった」[8]とされる。しかし、新王ハインリヒ1世の921年の二度目のバイエルン遠征においてアルヌルフは降伏し、このときアルヌルフはハインリヒ1世からバイエルンにおけるこれまでの一切の権利と大公位を追認され、バイエルンにおける統治をまかされた[9]。
アルヌルフの死後は子のエーバーハルトが大公となったが、938年に皇帝オットー1世に対し教会高権の返還を拒否し追放された[5]。その後はアルヌルフ悪公の弟ベルトルトが大公位を継承したが、947年、ベルトルトが死去した際、ベルトルトに男子相続人がいたにもかかわらず、皇帝オットー1世は自身の弟でアルヌルフ悪公の婿にあたるハインリヒ1世にバイエルン大公位を授けた。のち、ハインリヒ1世の子ハインリヒ2世の反乱により、ベルトルトの子ハインリヒ3世はバイエルン大公位を取り戻すが、985年にバイエルン大公位はハインリヒ2世に再び戻され、ハインリヒ3世にはかわりにケルンテン大公位が与えられた[10]。ハインリヒ3世は989年死去し、大公位は同家から離れた。なお、同家(アルヌルフ悪公)からヴィッテルスバッハ家[11]やバーベンベルク家[12][13]が出たとされる説もある。
ルイトポルト (?-907) バイエルン辺境伯 | クニグンデ (シュヴァーベン宮中伯ベルヒトルト1世娘) | コンラート1世 東フランク王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルヌルフ (悪公) (?-937) | ベルトルト (?-947) | ビルトルート | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エーバーハルト 938年追放 | アルヌルフ バイエルン宮中伯 | ハインリヒ | ユーディト | ハインリヒ1世 (東フランク王ハインリヒ1世子) | ハインリヒ3世 ケルンテン公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オットー1世 ケルンテン公 | ユーディト | ハインリヒ2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ザーリアー朝 | ハインリヒ2世 ローマ皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||