ルドルフ・ピーターソン | |
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国際連合開発計画総裁 | |
任期 1972年 – 1976年 | |
事務総長 | クルト・ヴァルトハイム |
前任者 | ポール・G・ホフマン |
後任者 | F・ブラッドフォード・モース |
個人情報 | |
生誕 | 1904年12月6日 スウェーデン スヴェンユンガ |
死没 | 2003年12月2日 (98歳没) アメリカ合衆国 カリフォルニア州ピードモン |
政党 | 共和党 |
教育 | カリフォルニア大学バークレー校(B.S.) |
ルドルフ・アーヴィッド・ピーターソン(Rudolph Arvid Peterson、1904年12月6日 – 2003年12月2日)は、バンク・オブ・アメリカの最高経営責任者 (CEO) や国際連合開発計画総裁を務めたアメリカ合衆国の銀行家 [1]。
ピーターソンは、スウェーデンのヴェストラ・イェータランド県スヴェンユンガで、子どもが6人いる家庭に生まれた。彼は母方のおじ夫妻に養子として引き取られ、一家は1905年9月にアメリカ合衆国へ移住した。移民した当初、一家はオハイオ州ヤングスタウンに居住していた。1907年、一家はカリフォルニア州を目指して列車で移動するスウェーデン系の若い家族たちの一団に加わった。彼らはロサンゼルスに定着することになった。1913年、一家はカリフォルニア州マーセド郡のヒルマーに移り住んだが、そこはターロック郊外のスウェーデン系の人々が集まった農業集落であった。ピーターソンはヒルマー高等学校を卒業してカリフォルニア大学バークレー校に進み、1925年にB.S.を得て卒業した[2][3]。
ピーターソンは、コマーシャル・クレジット・コーポレーション (Commercial Credit Corporation)、トランスアメリカ・コーポレーション、バンク・オブ・ハワイで経験を積んだ。1936年にバンク・オブ・アメリカに入行し、20年ほどカリフォルニア州で働いた後、6年間バンク・オブ・ハワイに出向した。バンク・オブ・ハワイの頭取を務めた後、1961年に副会長としてバンク・オブ・アメリカに戻った。1963年、ピーターソンはバンク・オブ・アメリカの頭取、最高経営責任者に指名された。1969年末に引退し、後任のオールデン・W・クラウゼンに席を譲った。1972年、ピーターソンは、国際連合開発計画の第2代総裁となり、世界中で展開される経済支援を取り仕切ることとなった[4][5]。
ルドルフ・A・ピーターソンは、カリフォルニア大学バークレー校から1967年の「Alumnus of the Year」(その年を代表する卒業生)に選ばれ、1991年には学長賞 (the Chancellor’s Award) を贈られた。1965年、アメリカ・スウェーデン系評議会 (the Swedish Council of America) から「Swedish-American of the Year」(その年を代表するスウェーデン系アメリカ人)に選ばれた。後にピーターソンは、1989年から1991年にかけて、この評議会の理事長を務めた[6][7]。
外交職 | ||
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先代 ポール・G・ホフマン |
国際連合開発計画総裁 1972年 – 1976年 |
次代 F・ブラッドフォード・モース |