ロイ・ヘファーナン | |
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プロフィール | |
リングネーム | ロイ・ヘファーナン |
本名 | ローレンス・ロイ・ヘファーナン |
身長 | 179cm |
体重 | 109kg(全盛時) |
誕生日 | 1925年7月12日 |
死亡日 | 1992年9月24日(67歳没) |
出身地 |
オーストラリア ニューサウスウェールズ州リスゴー |
スポーツ歴 | ボディビルディング |
デビュー | 1944年 |
ロイ・ヘファーナン(Laurence Roy Heffernan、1925年7月12日 - 1992年9月24日)は、オーストラリア出身のプロレスラー。
北米のマット界に進出後、アル・コステロとの悪役タッグチーム、ファビュラス・カンガルーズ(The Fabulous Kangaroos)の初代メンバーとして活躍した[1]。
ボディビルディングを経て、1944年にプロレスラーとしてデビュー[2]。1953年にアメリカへ進出し、ベビーフェイスのポジションで活動。1955年10月27日にはテキサス州アマリロにおいて、トーナメントの決勝でアート・ネルソンを破りNWAサウスウエスト・ジュニアヘビー級王座を獲得[3]。太平洋岸北西部ではレッド・バスチェンのパートナーとなり、1956年11月にNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王者となっている[4]。
1957年、カナダのカルガリー地区(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)にて、同じくオーストラリアから渡米してきたアル・コステロをパートナーにファビュラス・カンガルーズを結成[5]。以降、ヒールのタッグチームとして、テキサス、ニューヨーク、ロサンゼルス、フロリダなど、全米の主要テリトリーで活躍した[1]。
1965年7月5日のバンクーバーでのドン・レオ・ジョナサン&ジム・ヘイディとの試合を最後に、コステロとのタッグを解消してオーストラリアに帰国[6]。ジム・バーネットが運営していたワールド・チャンピオンシップ・レスリングにおいて、スカル・マーフィーやブルドッグ・ブラワーと共にヒール陣営のトップとしてスパイロス・アリオンらと抗争。同年10月から11月にかけては、豪州遠征中だったカール・ゴッチと8回対戦し、5勝1敗2引き分けの戦績を残した[6]。
1992年9月24日、心臓発作により67歳で死去[7]。没後の2013年、初代カンガルーズでの功績をたたえ、コステロと共にNWA殿堂に迎えられた[8]。
なお、1980年代前半にカナダ出身のボブ・ダラセーラがロイ・ヘファーナンの「甥」と称し、ジョニー・ヘファーナンあるいはボビー・ヘファーナンと名乗ってドン・ケントと新生ファビュラス・カンガルーズを結成していたが、あくまでもギミック上の設定であり、実際には血縁関係はない[9]。