ロバート・バーティー (初代リンジー伯爵)

ロバート・バーティー
Robert Bertie
初代リンジー伯爵

称号 初代リンジー伯爵
第14代ウィロビー・ド・アーズビー男爵
出生 1582年12月16日
死去 (1642-10-24) 1642年10月24日(59歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国ウォリックシャー州ウォリック城
埋葬 イングランドの旗 イングランド王国リンカンシャー州エデンハム英語版[1]
配偶者 エリザベス・モンタギュー
子女 モンタギューほか
家名 バーティー家
父親 ペレグリン・バーティー
母親 メアリー・ド・ヴィアー
栄典 ガーター騎士枢密顧問官
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初代リンジー伯爵ロバート・バーティー:Robert Bertie, 1st Earl of Lindsey, KG, 1582年12月16日 - 1642年10月24日)は、清教徒革命イングランド内戦)期のイングランドの貴族・軍人。父は第13代ウィロビー・ド・アーズビー男爵ペレグリン・バーティー英語版、母は第16代オックスフォード伯爵ジョン・ド・ヴィアー英語版の娘メアリー英語版

1596年カディス遠征に参加してナイトに叙されたが、陸戦から遠ざかり海戦に移り、1626年1628年にイングランド艦隊を指揮したが任務は失敗に終わっている(ラ・ロシェル包囲戦)。戦闘ではないが、1635年船舶税英語版の最初の徴収分で作られた艦隊の指揮も執り、イングランド水道を行ったり来たりしていた[2]。1626年にリンジー伯爵に叙せられた。

母を通してオックスフォード伯位継承権を持っていたため、1625年に第18代オックスフォード伯ヘンリー・ド・ヴィアー英語版が継嗣が無いまま死亡すると候補に上がったが、男系で遠縁のロバート・ド・ヴィアー英語版も相続人であり、貴族院の裁定でロバートが第19代オックスフォード伯に決定した[3]

1642年に第一次イングランド内戦が勃発すると王党派に入り、国王チャールズ1世から総司令官に任命された。だが陣形と戦術を巡ってチャールズ1世の甥の騎兵隊長ルパート(後のカンバーランド公)と対立、憤慨してジェイコブ・アストレーに歩兵指揮権を譲り、自らは中央の近衛歩兵連隊を指揮したが、10月23日エッジヒルの戦い議会派の騎兵隊に襲撃されて重傷を負い捕虜になり、翌日の24日に死亡した[4]

子女

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1605年にエドワード・モンタギュー・オブ・ボートン英語版の娘でボートンのモンタギュー男爵エドワード・モンタギュー英語版の姉妹エリザベスと結婚、13人の子を儲けた。

脚注

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  1. ^ Historic England. "Church of St. Michael and All Angels (Grade I) (1146587)". National Heritage List for England (英語). 2016年7月22日閲覧
  2. ^ ウェッジウッド、P114、ガードナー、P112。
  3. ^ ロイル、P407 - P408。
  4. ^ 田村、P77 - P78、P80、ウェッジウッド、P122、P130、P132 - P133、ガードナー、P112 - P113、P121。

参考文献

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公職
先代
オックスフォード伯英語版
式部卿
1625年 - 1642年
次代
リンジー伯英語版
先代
ポートランド伯英語版
海軍卿英語版
1635年 - 1636年
次代
ウィリアム・ジャクソン英語版
イングランドの爵位
爵位創設 リンジー伯爵
1626年 - 1642年
次代
モンタギュー・バーティー英語版
先代
ペレグリン・バーティー英語版
ウィロビー・ド・アーズビー男爵
繰上勅書により)

1601年 - 1640年