基本情報 | |||
---|---|---|---|
フルネーム | ロベルト・モンテイロ | ||
生年月日 | 1949年7月24日 | ||
出生地 | ブラジル ベロオリゾンテ | ||
没年月日 | 1976年5月13日 (26歳没) | ||
死没地 | ブラジル ベロオリゾンテ | ||
ポジション | フォワード | ||
クラブチーム* | |||
年 | チーム | 出場† | (ゴール)† |
アメリカFC | |||
1969–1976 | クルゼイロEC | 90 | (24) |
代表歴 | |||
1975 | ブラジル | 6 | (3) |
* 国内リーグ戦に限る。現在。 † 出場 (ゴール). |
ロベルト・バタタ(Roberto Batata、1949年7月24日 - 1976年5月13日)の名前で知られるロベルト・モンテイロはスポーツ選手。サッカーでフォワードのポジションをこなしカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA、クルゼイロECでプレイ後サッカーブラジル代表に選出された[1]。
ロベルト・ポテトを意味するロベルト・バタタという名前は、フライドポテト(ブラジルでのバタタ・フリタ)への愛情からヘッドコーチのジョアン・クリスピンによって名づけられた[2]。
ミナスジェライス州ベロオリゾンテで生まれ、アメリカFCでプロとしての経歴をスタートし、1969年にクラブを離れてクルゼイロECに加入した[1]。クルゼイロの防御面で活躍、1969年、1972年、1973年、1974年、1975年にカンピオナート・ミネイロ、1976年にコパ・リベルタドーレスで優勝した[1]。クラブにおいて90のセリエAの試合に出場し、24ゴールを記録した[3]。他の競技試合を含め、彼はクルゼイロで281試合に出場し、110ゴールを記録した[2]。
ロベルト・バタタは1975年にコパ・アメリカで4試合に出場し、3ゴールを記録した[4]。最初の試合は7月31日、ベネズエラ戦であった[4]。8月13日に同国に対して代表チーム今大会初の2ゴールを決めた[4]。3点目のゴールは、9月30日のペルー戦だった[4]。代表での最後の試合は、10月4日のペルー戦となった[4]。
バタタは1976年5月13日、ロドヴィア・フェルナン・ディアスで、妻のデニスと4か月の息子レオナルドを訪ねるためにトレス・コラソンエスに移動中に自動車事故を起こした後、ベロオリゾンテで亡くなった[2]。事故は、クルゼイロでの最後の試合に出場した翌日に起こった。この試合では、チームがペルーのアリアンサ・リマを4-0で破り、1ゴールを決めていた[2]。
ロベルト・バタタはミナスジェライス州ベロオリゾンテ、ボンフィム墓地に埋葬されている。