ロベール・アロン(Robert Aron、1898年5月25日 - 1975年4月19日)はフランスの著作家。政治や歴史に関する著作を遺した。アカデミー・フランセーズ会員。
イヴリーヌ県のル・ヴェジネに株式仲買人の息子として生まれる。フランス東部の古いユダヤ系ブルジョワジーの家系。コンドルセ高等中学校(Lycée Condorcet)を卒業後、第一次世界大戦末期に出征し、負傷する。
1921年(23歳)、保守派カトリックの『両世界評論』誌に寄稿を開始。文学の教授資格(アグレガシオン)を取得したが教職にはつかず、1922年、ガリマール書店に入社、ひきつづき『両世界評論』にも寄港しつつ、原稿審査員および翻訳課の責任者をつとめる。
1926年、アントナン・アルトー、ロジェ・ヴィトラック(Roger Vitrac)に協力して、アルフレッド・ジャリ劇場(Théâtre Alfred Jarry)を結成。ジャリ(1873年 - 1907年)は、前衛文学の先達である。
1930年前後、ガリマール書店が当時刊行していた映画誌『ルヴュ・デュ・シネマ』(Revue du cinéma)の主筆を勤め、1933年、社長ガストン・ガリマールの後押しで『新映画社』(La Nouvelle Société de film)を創立、ジャン・ルノワール監督の『ボヴァリー夫人』([1])を制作した(翌年公開)。
偶然に再会した高等中学校時代の友人アルノー・ダンデユーとの共著で『フランス国民の衰退』(1931)、『アメリカという癌』(1931)、『必要な革命』(1933)を出版。これらは1930年結成の人格主義団体『新秩序』(L'Ordre nouveau)において重要な理論的支柱となった。『新秩序』は1933年から1938年にかけて同名の機関誌を出版し、アロンもそこで活発に論陣を張った。
1940年、ナチス・ドイツのフランス占領が開始されるとともに、アロンはユダヤ人身分法によりガリマール書店を追われた。1941年、ボルドー近郊のキャンプに監禁され、釈放されるがパリ居住を禁止されてリヨンへ赴く。そこからさらに(当時はフランス領であった)アルジェリアへ渡る。当地ではアンリ・ジロー、シャルル・ド・ゴールのスタッフとなり、また、リュシー・フォーレ(Lucie Faure)らと『ラ・ネフ誌』(La Nef)を発行した。
第二次世界大戦末期に始まった連邦運動では、常に中心的な役割を果たした。
パリに戻ってからは再び著述に取り組み、1950年代には現代フランス史の研究に力を注ぐ。
1974年、アカデミー・フランセーズの会員に選出されるも、その受諾式典の5日前に急逝。77歳の誕生日を目前にしての死であった。
前任 ジョルジュ・イザール |
アカデミー・フランセーズ 席次32 第18代:1974年 - 1975年 |
後任 モーリス・レイム |